日本キリシタン概史、秀吉公の禁教令まで
ザビエルさまの来日から、この日本でキリスト教の布教が始まるのでございますが、布教の許可を手に入れるために宣教師たちはまず戦国大名たちの了解を得なければなりませぬ。宣教師は、異国の新奇な品物や南蛮貿易の利益によって、まずは大名たちの関心を引きます。そして戦いに明け暮れる大名た...
キリシタン概史、初期キリスト教からザビエル来日まで
当時の時代背景を描くのに、キリシタン、あるいはキリスト教の知識は欠かすことが出来ませぬ。それも長期的な歴史展望に立った視点で眺めることが不可欠でございます。キリスト教やキリシタンについては、本当に数えきれないほどの研究や文献があるので、ここではごく粗雑なデッサンを描くのみに...
蒲生秀行さま、家康公の三女・振姫さまとのご婚約、そして井上清兵衛さまの蒲生隠密行
このように蒲生秀行さまがまだ年若いほんの少年だったためでございましょう、秀吉公は蒲生家の領国経営に直接介入なさいます。蒲生秀行さまは7月13日に会津若松へ入られましたが、秀吉政権を支える五奉行の筆頭である浅野長吉さまが監視役としてご同行なさり、秀郷公亡き後の蒲生家中と遺領の...
奥州の抑え、会津若松の蒲生家
もともと徳川譜代の家に生まれ育った井上政重さまの生涯の経歴の中で、「かつて蒲生家に仕えていた」と言われる部分がございます。私はここになにかすっきりしない違和感をずっと持ったままでございました。 近江三上山の大ムカデを退治した平安時代伝説の武将、俵藤太(藤原秀郷)を祖とする蒲...
まだ子どもの井上清兵衛さまは江戸城にいたのでしょうか?
こうして、秀吉公による天下統一は一応の決着を見たのでございます。家康公が関東へと移封されたことにつれまして、大須賀忠政さまも房総半島の中心、久留里3万石(現在の千葉県君津市久留里)に移ることになりまする。その配下の井上清秀さまは久留里へと移られたことでございましょう。しかし...
政重さまの父上、清秀さまの転戦
父・清秀の転戦 井上清兵衛、後の筑後守政重の父・井上清秀さまは戦場往来に多忙を極めておられました。清秀さまが織田家、佐久間信盛さまの配下から、天正4年(1576)頃に松平家中に戻って、仕えていましたのは、徳川二十将の一人に数えられる大須賀康高さまでございます。当時の大須賀康...
南蛮、海外への憧れを持った子どもだったかも
もう一つ、井上清兵衛の子ども時代を彩ったものとして、海外への憧れがあったように思うのでございます。 そのように想像しますのは、父・清秀さまが仕えられた武将、大須賀康高さまが築いた横須賀城の構造からでございます。 この横須賀城は、遠州灘に面し、3階4層もの高い天守閣を誇ってお...
子ども時代の井上清兵衛クンは
徳川方譜代の武将に仕え、自分の家も三河時代から徳川家3代に仕えるという、徳川さまとの因縁浅からぬ井上家に生まれた井上清兵衛、後の政重さま。 家康公を、今の時代の総理大臣か有力な閣僚にたとえるといたしますならば、静岡県知事付きの県会議員か市会議員の息子、といったところになりま...
遠江の動乱、政重さまの父・井上清秀さま
井上清兵衛(後の政重さま)の父上、井上清秀(天文2年・1533~慶長9年・1604)は、最初は織田家の武将、佐久間信盛さまに仕えたお侍でございます。これは想像なのですが、先代の主君でありました松平清康さまを刺し殺してしまった男の弟であったがゆえ、松平家中では、何かしら憚るも...
三河衆の苦節、政重さまの祖父・井上清宗
井上政重さまの生きた時代は、網野善彦氏の言葉を借りるならば、「地域小国家の分立と抗争」から「再統一された日本国」へと時代が急速に動いて行った時代でございます。 応仁元年(1467)から始まり、京の町を全くの灰燼と帰してしまった応仁の乱から、戦乱の嵐は日本全土に広がり、既存の...