寛永9年(1632)、初代惣目付の一人となられた47歳の井上筑後守政重さま
寛永9年(1632)1月24日、大御所の徳川秀忠公が死去なされ、家光さまの政権は新しい時代を迎えることになりました。その際に問題となったのが、自分の弟、国松さまで、長じて徳川忠長さまでございます。この方は甲斐を治め、後に駿河、遠江も合わせて50万石を領した駿河大納言さまのことでありますな。
幕府の記録では忠長さま御乱心とされておりますが、その大元の原因は、長年にわたる家光さま・忠長さまの間の軋轢でございました。忠長さまのことについては、いろいろと書かれたものもございますゆえ、ここではあえて書かないことにいたします。
家光さまは寛永9年(1632)10月20日、登城を命じられた諸大名の方々へ老中を通じ、徳川忠長さまの領地没収と上野高崎への逼塞を申し渡したのでございます。甲府におられました忠長さまへの上使を命じられましたのは、内藤伊賀守忠重さま、牧野内匠頭信成さま、そして井上筑後守政重さまのお三方でございました。こうして忠長さまの御身柄は甲府から、蟄居先の高崎まで送り届けられたのでございます。そして政重さまは、これによって12月17日に新たに設けられた惣目付(後の大目付)に任じられ、さらに2000石の加増を受けられて、合計4000石の知行を得ることになりました。
この時、初代の惣目付に任じられたのは4人の方々。その面々は水野河内守守信さま(寛永3年(1626)、長崎奉行に就任。キリシタンの取締りを強化し、踏み絵を考案したともいわれる。寛永5年(1628)2月2日に大坂町奉行、寛永6年(1629)2月6日より堺奉行を兼任する)、秋山修理亮正重さま、柳生但馬守宗矩さま、そして井上筑後守政重さまでございました。
この四方さまは、御老中さまの下に付き、諸大名の監察など、最高内務監察官として徳川幕府の裏も表も知り尽くせる立場に立たれたのでございます。徳川幕府のインテリジェンス活動はこの4人の惣目付さまが担うことになりました。
忠長さまは、その翌年寛永10年(1633)12月6日、幽閉先の高崎で御自害なさいます。この亡骸を検分するため、高崎へ遣わされたのは井上筑後守政重さまでございました。政重さま48歳の時でございます。
これ以降、井上筑後守政重さまの活動や残された記録は、急速に密度を増してくるのでございます。