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渡辺京三著「バテレンの世紀」を手にして

  • ryokurinken
  • 2018年7月2日
  • 読了時間: 4分

 このように長期の執筆をしておりますと、参考にすべき文献が次々と出てくるものでございます。切支丹のことやら井上筑後守政重のことなどを調べようとして、最初に読み始めた遠藤周作先生の「切支丹の時代」と、渡辺京二先生の「バテレンの世紀」は、出版・発表時期を考えると、ほぼ20年以上の時間差がございます。その間に人々の感受性や考え方の変化、新事実などが発見されるなど、日本とキリスト教の関係についても、見解が変ってまいります。

 私がかねがね感じていたのは、なぜ切支丹の殉教がかくも美しく、純粋に描かれているのはなぜだろうということでございました。そこに、どこかしらの違和感を抱いていたのでございます。宗教的な純粋さを描くのは美しいけれど、その実態はどうだったのだろうか?だれでもキチジローになるかもしれない中で、紙一重で殉教したり、生き延びたりしたはず。棄教したか、カクレになったかは、また別のことでございましょうが、後の世の人々が、それも遠く離れたローマ教皇庁から、殉教したこれこれの人を、聖者だの福者に任ずるというのは、何だろうなー、という感じであるのです。コストがかからない、上手いやり方だ、と思うのであります。日本にいるキリスト教徒を本気で助けるなら、「日本は悪魔の国だ、十字軍を起こすべきだ」とヨーロッパ中にお触れを回して、続々と重武装の船団を送ればよかったのです。しかし、当時のヴァチカンにはそんな財力も指導力もなかったのでございます。

 それはさておき、渡辺京二氏の「バテレンの世紀」は、雑誌「選択」に連載していた時から注目していて、参考文献として必要な部分をバックナンバーからコピーして持っておりました。

 渡辺氏の見解では、日本に対するキリスト教の布教は、対イスラム勢力の戦いとして長年ヨーロッパ人が戦い続けてきたレコンキスタの流れの上にあること。レコンキスタによってまず軍事的な勝利を収めた後は、異端審問裁判所によって、さらに思想的な勝利をも収めようとしたのでありますな。悪名高い異端審問裁判所に代表される宗教警察というものは、まことに面倒なものであります。人々の、変幻極まりない心の中を統制しようというのですから。

 身近な例で言いますと、中東のISが支配した地域で、宗教警察が権力を持ち、一般市民を監視し、不穏な動きを抑え込む仕事をしていたことが挙げられるでしょう。宗教警察といってもカラシニコフを持った若僧(ヒゲを生やしているので老けて見えますが)が、町中を流しながら、イスラム的ではない行動や装いをランダムに取り締まるわけで、独立系のニュース動画で見ると、ほとんどヤクザのいちゃもん付け、因縁付けみたいで、私服の(たぶん制服をきちんと支給できるほどの予算がないのですなあ)宗教警察官たちはやたら偉そうにしているのでした。

 そしてレコンキスタの流れの上にあるキリスト教の海外布教は、金が儲かるというギラついた欲望の上に成立していたのでございます。キリスト教徒じゃないから、人非人だから、どれだけ攻撃してもいい、搾り取ってもいい、という論理です。キリスト教徒じゃないから、彼らはやがて地獄に落ちる。彼らが地獄に堕ちないように、改宗させてやるのだ、という思考回路なのでした。

 ISの論理で言うなら、敬虔なイスラム教徒ではない連中は、近代文明、欲望の文化に身も心も犯された堕落した連中だ、だから爆弾で吹き飛ばしてもいい、という考え方です。これは一神教に囚われた考え方と言えるでしょう。ですから、一神教の連中は異教徒に対してかくも酷薄、残忍になれるのです。ユダヤ人という異教徒に対して行ったことは、キリスト教、あるいは国家社会主義(ナチズム)というドグマによって動かされる人間であれば、たやすく行き着きかねない行動なのです。

 大金が儲かるから、遠いヨーロッパからわざわざやって来たのが、当時のヨーロッパ人であります。事実彼らは南米で大成功をおさめ、インカ帝国やアステカ帝国を滅ぼし、植民地化して巨万の富を得ていました。それと同じ方法でいっちょう金儲けしてやろう、という感覚です。金儲け行為、残虐行為に、キリスト教的、一神教的な免罪符が付いているのですから、始末が悪い。たまたま当時の日本が戦国時代で、一般人に至るまでひしひしと重武装していたことが、いまになって思えば、当時のイケイケのキリスト教会の浸食をあんな程度で止められた、と思うのであります。

 
 
 

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