政重さまの悪名を全キリスト教世界に轟かせたフェレイラ師の棄教
井上筑後守政重という名を、一躍世界中に知らしめたのは、クリストヴァン・フェレイラ師の棄教と転向でございます。イエズス会に入ってから37年、日本での布教も23年という多きを数えた宣教師クリストヴァン・フェレイラさまは、日本管区長代理を長年務められた、切支丹伴天連の大物中の大物...
渡辺京三著「バテレンの世紀」を手にして
このように長期の執筆をしておりますと、参考にすべき文献が次々と出てくるものでございます。切支丹のことやら井上筑後守政重のことなどを調べようとして、最初に読み始めた遠藤周作先生の「切支丹の時代」と、渡辺京二先生の「バテレンの世紀」は、出版・発表時期を考えると、ほぼ20年以上の...
寛永9年(1632)、初代惣目付の一人となられた47歳の井上筑後守政重さま
寛永9年(1632)1月24日、大御所の徳川秀忠公が死去なされ、家光さまの政権は新しい時代を迎えることになりました。その際に問題となったのが、自分の弟、国松さまで、長じて徳川忠長さまでございます。この方は甲斐を治め、後に駿河、遠江も合わせて50万石を領した駿河大納言さまのこ...
兄・正就さまの非業の死
政重さまの兄君、正就さまは順風満帆に出世街道を驀進しておられました。寛永3年(1626)の家光公2度目の御上洛では、御書院番、小姓組番(御花畑番)の両番頭を兼ねて家光に供奉されました。徳川将軍の直属親衛隊を率いての堂々の上洛でございます。おそらくこの時期が正就さまの絶頂期だ...
二代将軍秀忠さま治下の、兄・井上正就さまのご活躍
井上政重さまの兄上、正就さまは大いに活躍なさっておりました。2代将軍秀忠さま近侍の三臣と呼ばれた井上正就さま、板倉重宗さま、永井尚政さまは、いずれもまず小姓としてお仕えになり、長じるにつれて江戸城の各室や諸門を警備する御書院番の頭、あるいは将軍の居室やその身辺警護に当たる御...
伊達さまの親キリシタン的ご謀反を描いたフィクションなどについて
この伊達政宗さまのキリシタン勢力を味方に付けて、いまだ確立途上の徳川幕府体制を打ち壊そうとしたご謀反のお話は、正史に記されるようなものではございません。しかし、何人かの作家の方々は、その雄大な世界史的謀略に刺激を受け、時代劇的なフィクションを書いておられます。...
伊達政宗さまの徳川幕府討幕計画
ダイナミックな数々の時代小説を書き、いまだにファンの熱い想いが冷めやらぬ作家、隆慶一郎氏。隆氏が描いた中で一番の嫌われ者は、徳川幕府第二代将軍、秀忠さまでございます。隆氏の小説世界では、影武者に入れ替わった父、家康を暗殺しようとしたり、柳生軍団を使って吉原を闇討ちしようと図...
徳川家康さまの第六男にして伊達政宗さまの娘婿、松平忠輝さまのこと
一口に徳川幕府260年の泰平などと申しますが、それは後の時代の私たちから見た視点でございます。結果としてさほど変動しない時代がたまたま続いたわけでございまして、人々はその時代、その場所で考えて、よかれと行動していったのでございます。一番変わりにくいのは人の考え、思い、心とい...
究極の反耶書「破提宇子」の執筆、編集作業、不干斎ハビアンとの出会い
日本宗教史上、最もキリスト教にダメージを与えた書「破堤宇子」が出版された元和6年(1620)の政重さまは35歳。関係者として挙げられる人物の年齢は、征夷大将軍徳川秀忠さま44歳、お世継ぎ徳川家光さま16歳、長崎奉行長谷川権六さまは生年が不詳ではありますが、長崎奉行に元和元年...
不干斎ハビアン著「破堤宇子」を読んでいた政重さま
政重さまが現場の武士から、管理職の武士へとステップアップしていく際の長所とは、親キリシタン的な蒲生家での徳川方としての隠密活動、もう一つは御朱印船番士としての海外における隠密活動の経歴でありました。いずれも発足間もない江戸幕藩体制の対キリシタン戦略を考える上で、現場を知って...