兄・正就さまの非業の死
政重さまの兄君、正就さまは順風満帆に出世街道を驀進しておられました。寛永3年(1626)の家光公2度目の御上洛では、御書院番、小姓組番(御花畑番)の両番頭を兼ねて家光に供奉されました。徳川将軍の直属親衛隊を率いての堂々の上洛でございます。おそらくこの時期が正就さまの絶頂期だったのでございましょう。この時、政重さまも新将軍の御伴として上洛されておられます。
しかし正就さまの人生は51歳で寛永5年(1628)にあっけなく絶たれてしまったのでございます。井上正就さまは、旗本で目付の豊島信満(正次、明重とも)は、正就さまの嫡子河内守正利さまと大坂町奉行・島田直時の娘御とを縁組みし、仲人を務めることに約定しておられました。しかし、横車を押した春日局さまは、正就に鳥居成次の娘御と縁組みするように命じて、正就さまは島田家との縁組みを破談としてしまったのでございます。
これで豊島さまの面目は丸潰れとなってしまいます。これを恨んだ豊島さまは寛永5年(1628年)8月10日、西の丸で「武士に二言は無い」と叫んで脇差で正就さまに斬りかかったのでございました。青木忠精さまが豊島さまを羽交い締めにして取り押さえますと、豊島さまは脇差を自分の腹に深々と刺し貫かれ、脇差は背後で羽交い締めにしていた青木さまにまで達したのでございます。正就さまと豊島さま、さらに巻き添えを食った青木さま、3名はあっけなく絶命してしまったのでございます。
しかし井上家はお咎め無しで嫡子正利さまへの家督相続が認められたのでございます。豊島家には、老中酒井忠勝さまのご配慮により、嫡子継重さまの切腹とお家断絶の処分にとどまり、他の豊島一族への連座はございませんでした。娘を井上正利さまに嫁がせようとした島田直時さまは、この事件への責任を感じ自決なさったのでございます。現在、井上正就さまの墓所は静岡県掛川市内の本源寺にありまして、これは子の正利さまが亡き父のために建立したものでございます。
これは武士の面目が立つ、立たないといった個人的な遺恨のようにも思えるのでございますが、3代将軍家光公が、2代将軍で大御所となった秀忠公の側近などから、低い評価しか与えられず、軽んじられていた雰囲気から発したもののようでございます。余談ではありますが、これは江戸城内で初めての刃傷事件でありまして、この次に江戸城内で起きる刃傷とは、浅野内匠頭さまが吉良上野介さまへ切りかかったものでございますな。
兄のこのような不慮の死は、井上政重さま自身の処世術に大きな影響を及ぼしたはずでございましょう。当時43歳の政重さまもやはり幕府の中の切れ者の一人として着実に力を伸ばしつつあったからでございます。
寛永4年(1627)12月29日、従5位下筑後守に叙任されたばかりの政重さまは、おそらく秀忠公から家光公への権力が徐々に移りつつあることを敏感に察していたに違いありません。さもなくば内務監察官ともいえる目付役の仕事など勤まるはずがないのでございますから。政重さまの身の処し方としては目立たぬよう、妬みを買わぬよう、より慎重なものになったことでございましょう。ある意味、蒲生家に隠密として忍んだ時のような自重を強いられたはず。
兄の不慮の受難があったとはいえ、政重さまにとっては、孫の政清さまの誕生という明るい話題もあったのでございます。