top of page

伊達政宗さまの徳川幕府討幕計画

 ダイナミックな数々の時代小説を書き、いまだにファンの熱い想いが冷めやらぬ作家、隆慶一郎氏。隆氏が描いた中で一番の嫌われ者は、徳川幕府第二代将軍、秀忠さまでございます。隆氏の小説世界では、影武者に入れ替わった父、家康を暗殺しようとしたり、柳生軍団を使って吉原を闇討ちしようと図ったり、さんざんに悪い奴に描かれております。

 ここまでケチョンケチョンに書かれてしまうと、かえって秀忠さまの心情を思いやってしまう私めでございますよ。だってお父さんの家康さまは日本史上のみならず世界史的にも、実に卓越した武将、政治家、人物なのでありまして、いざその前に立たされればどんなに優れた人物であっても、どうしても見劣りしてしまうのはやむを得ないことでありますから。

 ナポレオン・ボナパルト、アレクサンダー大王、ユリウス・カエサル、サラディン、チンギス・ハーンなんかと並んでしまう家康さまですから。その子供たちは、たとえ一般人よりは優れていたとしても、父親と較べたらどうしても凡庸に見えてしまうわけです。彼らが生まれながらにどんなに苦労されたか、思わず涙してしまうものがございます。

 そんな中で、徳川秀忠さまは後世の私たちから見て、まあ結果的にあの人で良かったんだろうなあ、という方ではないでしょうか。

 「捨て童子、松平忠輝」の中に、あまりに秀忠さまが忠輝さまを嫉み、嫌うので、父上の家康さまはいっそのこと忠輝さまを海外へ亡命させてしまおうか、と考える部分がございます。名目的には徳川幕府と西洋との貿易を図るべく、息子の忠輝さま(西洋の称号で言うならプリンス・トクガワとなりますなあ)を正使として、太平洋を横断してメキシコを経由し、大西洋を越えて、スペイン王国のフェリーペ3世のもとへ使節団を送ろうとするのですが、結局忠輝さまは自分の治める越後福嶋藩を見捨てることしのびなく、その船には乗らなかった。その代わりに急遽、正使に任ぜられたのが支倉常長さまであった、というストーリーなのであります。(遣欧使節1、2の章です)

 隆氏は、実父・家康さまと、義理の父・伊達政宗さまの仲が、忠輝さまを中心として、割合良好なものとして描かれておりますが、そのあたりに私はちょっとした違和感を感じていたのでございます。奥羽の梟雄・伊達政宗さまは家康さまより24歳若く、秀忠さまより12歳年上であります。戦国、下剋上の気風に満ち満ちた政宗さまは徳川家にやすやすと服従するような大名ではなかった、と考えますと、政宗さまなりの討幕計画を考えていても不思議ではないのであります。

 秀忠さまには関ヶ原の戦いへの遅参とか、色々と征夷大将軍としての資質を疑う声がございました。一方、忠輝さまは、隆慶一郎氏の小説によれば(ああ、いいかげんだなー、我ながら…)腕は立つし、外国語も修得し、医術にも詳しく、西洋文化への関心も高い。伊達政宗の息女で、忠輝さまの正室五郎八姫(いろはひめ)はキリシタンだったとの研究書もございます。

 「捨て童子-松平忠輝」の中で、隆慶一郎氏は仙台の土生慶子氏の著書「いろは姫」を紹介しております。これによって、伊達政宗の長女・五郎八(いろは)姫がキリシタンであったことが明らかになりました。キリシタンに寛容な政策を示す伊達政宗は、徳川幕府の度重なる禁令にもかかわらず、自領内にキリシタンの入植を図っていたと申します。

 もうひとつ、支倉常長・慶長遣欧使節の研究をライフワークとして、メキシコ、スペイン、ローマなどの現地に残された文献を長年研究して何冊もの本を書かれた大泉光一氏の著書の中に「キリシタン将軍伊達政宗」という本がございます。この本によりますと、支倉常長の遣欧使節はローマ教皇より政宗さまが「キリスト教の王」の称号を受け、自領内に「キリスト教徒の騎士団」設立の許可を得ることが最大の目的であった、とのこと。

 結局、伊達政宗さまはキリスト教の洗礼を受けていないため、「キリスト教の王」の称号も騎士団創設の許可もヴァチカン教皇庁から得られず、支倉常長さまは空しく帰国されたのでございます。

 もし、政宗さまがキリスト教の王として、騎士団を組織すれば、キリシタン武士たちを糾合し、キリシタン信徒を大量に入植させて、奥州を中心とした一大キリシタン王国が生まれたはずでございます。

 もしそれが現在まで続いていたとすれば、北アイルランドを英国が領有しているような状態のようになったかも知れません。つまりプロテスタント=イギリス国教会の北アイルランドとカトリックのアイルランドが国境を隔てて存在するような状況でしょうか。あるいは、イスラム教のアラブ圏の中に突然ユダヤ教のイスラエルができたようなものでしょうか。いずれにせよ、のんびりしてあいまいな多神教の日本の中に、伊達政宗さまの手で一神教のキリスト教地域、キリスト教国が突然に出現していたかもしれなかったのでございます。

 政宗さまの討幕計画は、経済的には日本各地の金山、銀山を、キリスト教国のスペインあたりからの新しい採掘技術で次々と活性化し、金銀の産出量を飛躍的に高めた大久保長安さまを経済的なバックボーンとしておりました。当時のスペインは南米でインカ帝国、アステカ帝国を滅亡させ、銀の採掘で巨万の富を得ていたわけですから。大久保長安さまは天下の惣代官と呼ばれ、徳川幕府の金庫番と考えられていた人物です。 

 そして、徳川家の第6男、松平忠輝さまを盟主として祭り上げ、その黒幕に伊達政宗さまが納まるという構図。そして対外的にはキリシタン王として国際的なオーソライズを受けて、威を振るうというわけであります。

 そういう恐るべき目論見を持って派遣されようとしていた欧州遣欧ですが、遣欧使節出発の5か月前、大久保長安さまは死去し、その遺品から討幕計画を記した書類が発見され、その子らすべてに家康さまは切腹を命じられます。

 また遣欧使節が出発した慶長18年(1613)から帰国した元和6年(1620)の7年間のうちに、日本の政治、覇権の動向は政宗さまの思惑からは大きく外れてきたのでございます。

 大阪の陣で豊臣家が滅亡したのが慶長20年(1615)。翌元和2年(1616)に徳川家康さまが亡くなられ、その3か月後松平忠輝さまは領地を全て没収され、伊勢に配流となったのでございます。遣欧使節の失敗によって、政宗さまは自分の天下取りの時がすでに去ったことを知り、手のひらを返したように、自領内のキリシタン弾圧に取り掛かったのでございます。

 遣欧使節として苦難に満ちた旅をした支倉常長さまは元和8年(1622)年に病死なさいます。またキリシタン宣教師でこの遣欧使節プロジェクトを推進し、支倉常長さまと旅の苦難を共にされたルイス・ソテロさまも寛永元年(1624)火刑に処せられたのでございます。

Featured Posts
後でもう一度お試しください
記事が公開されると、ここに表示されます。
Recent Posts
Search By Tags
まだタグはありません。
Follow Us
  • Facebook Classic
  • Twitter Classic
  • Google Classic
bottom of page