究極の反耶書「破提宇子」の執筆、編集作業、不干斎ハビアンとの出会い
日本宗教史上、最もキリスト教にダメージを与えた書「破堤宇子」が出版された元和6年(1620)の政重さまは35歳。関係者として挙げられる人物の年齢は、征夷大将軍徳川秀忠さま44歳、お世継ぎ徳川家光さま16歳、長崎奉行長谷川権六さまは生年が不詳ではありますが、長崎奉行に元和元年(1613)就任して寛永2年(1625)に退任したことから考えると、長崎の県知事的総責任者たる年齢であったことでしょう。そして不干斎ハビアンさまは55歳でございます。
「破堤宇子」は京都大学の図書館に実物の本が所蔵されております。インターネットの発達はまことにありがたいばかりで、デジタルアーカイブ化された「破堤宇子」は誰でも目にすることが出来まする。この「破堤宇子」については、英語訳がございます。"Refutation of Deus" by Habian; translated by Esther Lowell Hibbard; assisted by Yoshimori Hiraishi, 1st ed. International Institute for the Study of Religions, 1963がそれでございます。翻訳者のエスター・ヒバード女史は同志社女子大学の初代学長であった方で、翻訳補佐をされたのは平石善司同志社大学名誉教授(1912~2006)でありました。また海外の研究者による著書もございます。 "Deus destroyed: the image of Christianity in early modern Japan" by George Elison , Harvard University Press, 1973(Haravard East Asian series; 72)という本ですがこれも同じく京都大学の図書館にございます。アマゾンの書評にも何本かのレビューがありますから、この「破堤宇子」のインパクトはいまだに衰えていないのでございましょう。これらの情報もネット社会でなければ入手できなかったものでございますな。
ハビアンさまは永禄8年(1565)頃、北陸あたりで生まれ、禅僧であったようでございます。天正11年(1583)に禅仏教を捨ててキリシタンに入信し、大阪・高槻のセミナリオに入学され、キリシタンの道を歩まれていったのでございます。その才能はずば抜けたものでしたようで、やがて慶長8年(1603)、京都・下京教会のリーダー的な存在として赴任されます。そしてキリシタン入門書にして比較宗教論ともいえる「妙貞問答」を慶長10年(1605)に書かれます。この本はハビアンさまのおられたイエズス会のみならず、フランシスコ会などでもテキストとして使用されるほどの評判となりました。
しかし慶長13年(1608)、突然ハビアンさまは一人の修道女と一緒にイエズス会を脱会して失踪してしまうのです。日本人のキリシタン指導者としてトップにあった人間が突然消えてしまったのです。ハビアンさまは、奈良、枚方市中宮、大坂、博多、長崎とキリシタン教団の眼を逃れつつ、逃亡生活を送っていました。
そしてあろうことかキリシタン弾圧に辣腕を振るっていた長崎奉行長谷川権六さまに密かに協力していたのでございます。元和4年(1616)から元和7年(1619)に長谷川さまと共に江戸と長崎を往復し、元和7年(1619)再び江戸に上がってハビアンさまは2代将軍秀忠さまと面談しておられます。「破堤宇子」が出版されたのはその翌年、元和6年(1620)であり、これによって徳川幕府はキリシタンという宗教を明確に把握し、論破する根拠を得たと申せましょう。その現場に34-35歳の井上政重さまが居た考えると、何やらしっくりしたものを感じるのでございます。
多忙を極める秀忠さま、長谷川権六さまには、わざわざ「破堤宇子」の執筆編集作業の現場に居ることは不可能でしょう。そこには心効いた下役の存在が必ずあったはずなのでございます。「破堤宇子」は長崎で出版されたと考えられていますので、長崎奉行・長谷川権六さまの庇護下にあったのでございましょう。当時55歳あたりのハビアンさまの執筆環境を整え、お茶を出したり、食事の手配をしたり、墨を摺ったり、紙を用意したり・・・。時としてハビアンさまは頭の整理をするために、下役と親しく語り合ったかもしれません。また下役の抱えていた宗教的な悩み事、心の葛藤も密かに聴いていたかもしれないのです。そのあたりは元・第一級のキリシタンの先生ですから。
もし下役が、34歳頃の政重さまであれば、17歳にしてキリシタンの信仰を持った娘と愛し合い、子まで為しながら、その娘を捨てたこと、御朱印船に乗り組んで東南アジアへあてどもない隠密行を重ねたこと、大坂の陣の戦いで修羅を経験したこと、などなどいままでの悶々とした人生を思わず語ってしまったのでございましょう。
またこの時、親しくハビアンさまの傍にあって、書き上げたばかりの墨痕淋漓たるハビアンさまの原稿を読みながら、政重さまはキリスト教を越える道筋をだんだんと見つけられたのではないかと思うのでございます。
この本の成立過程を考えますと、当時の出版コストは現在とは比べ物にならないほどかかった事実に突き当たります。いまでも「あなたの原稿を本にしませんか?」という新聞広告にふらふらと釣られて、その出版社に問い合わせてみると大体150万円くらいの金額を提示されます。ワープロソフトで筆者自身が書き起こし、出版社へメールで送った後、DTPで作業し、オフセット印刷から製本へと進める効率的な現代の出版技術に比べると、江戸時代初期の出版活動は桁違いにお金がかかったはず。
版木をいちいち彫るのです。紙も和紙です。版木の耐久性を考えると、何万部も刷れるわけもなく、本の価格はきわめて高価だったことでしょう。それを資金的にサポートできたのは、それもアンチ・キリスト教的な立場から支援できたのは、寺社勢力でも、神道関係でもなく、徳川幕府本体だったはずでございます。
ハビアンさまと政重さまは「破堤宇子」の編集、出版作業で親しくしていたからこそ、政重さまはキリシタンの宗教学的な弱点を実地で教わっていたのでございましょう。そういったハビアンさまの薫陶があったからこそ、政重さまは後のキリシタン取締りに恐るべき力を発揮されたのでございます。
ハビアンさまは「破堤宇子」の出版を見届けるようにして、出版の翌年、元和7年(1621)に長崎で、宗教的にも政治的にも時代の波乱を突っ切るような生涯を終えられました。しかしその日時や死の様子は何も伝わっていないのでございます。