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徳川家康さまの第六男にして伊達政宗さまの娘婿、松平忠輝さまのこと

 一口に徳川幕府260年の泰平などと申しますが、それは後の時代の私たちから見た視点でございます。結果としてさほど変動しない時代がたまたま続いたわけでございまして、人々はその時代、その場所で考えて、よかれと行動していったのでございます。一番変わりにくいのは人の考え、思い、心というものでございまして、こういうお触れが出たからとか、制度や役職が出来たから、すぱっすぱっと切り替わっていくものではないのでございます。時の本流が動けば、それに対するひずみやゆがみがあちらこちらへと噴き出してまいります。それが犯罪や乱のかたちで出てくるのは、正常な世の中のありようというもの。

 徳川幕府をより動かした「乱」といえば由井正雪の乱(慶安5年・1651)、大塩平八郎の乱(天保8年・1837)が代表的なものですが、いずれも鎮圧されたものでございます。一方、幕末の動乱から徳川幕府の瓦解、明治維新の成立に至るのは鎮圧されなかった「乱」、成功した「乱」と申せましょう。表には出なかったものの、ひょっとして天下大乱になったかもしれない、後の世に大きな影響を与えたかもしれない隠された「乱の謀略」もあったのでございます。

 徳川幕府の基礎がいまだ盤石に定まらぬ江戸時代初期、応仁の乱からの下剋上の動乱が徳川家康という偉大な武将によってまがりなりにもまとめられていく時期は、徳川家にとって後継者の資質を試される厳しい時代でもあったのです。家康の息子たちは全部で11人、信長公の命で切腹させられた長男・信康さま、武将として評価の高い次男の秀康さま、2代将軍となった秀忠さま、四男・忠吉さま、五男・信吉さま、七男・松千代さま、八男・仙千代さまらは若くして亡くなり、九男・義直さまは尾張徳川家の初代、十男・頼信さまは紀州徳川家の初代、十一男・頼房さまは水戸徳川家の初代でございます。

 その中でただ一人不可解な生涯を送られたのが六男の松平忠輝さまです。母上のご身分が低かったとか容貌魁偉だったため父・家康公に疎まれたとかいわれますが、越後高田藩主として75万石の大領を預かります。しかし父・家康さまの死後、二代将軍秀忠さまから、大阪の夏の陣の遅参などの理由で、22歳で改易・流罪を命じられ、伊勢、飛騨、信濃で流人生活を送り、五代将軍綱吉の時代だった天和3年(1683)に92歳の長寿を全うされたのでございます。

 忠輝さまを描いた伝奇時代小説に隆慶一郎氏の「捨て童子・松平忠輝」という長編がございます。隆慶一郎氏は私めのお気に入りでの「吉原御免状」など、今でも時々読み返しております。「捨て童子・松平忠輝」は、隆氏の最後に完結した長編歴史小説ですが、忠輝さまのご生涯の誕生から若くして流人となるまでしか描いてありません。そこからいくつか気になるポイントを抜き出してみたいと思うのでございます。

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