家光に付属する最初の家臣団として
豊臣家を滅ぼした家康さまは翌、元和2年(1616)4月17日に亡くなられます。まさに「人の一生は重い荷を背負って行く」ような人生でございました。とはいうものの、長年続いた戦国の世をひとまず終わらせ、人々がとりあえずは平和に暮らせる世を作られたということでは、まことに大きな功...
政重さまの正室は、由緒正しき太田道灌の流れのお嬢さまでありました
お武家さまは世継ぎをちゃんと残さねばなりませぬ。それは、お家の存続をなによりも大事と考えたためでございましょうが、その祝言には惚れた晴れたで片が着く庶民とはまたちがったご苦労もおありだったようでございます。 井上政重さまのご正室は、11歳年下の太田重政さまのご息女でございま...
蒲生家のその後、断絶に向かう内紛続きで
政重さまにお子が生れてから、青春的放浪を繰り返していた時期、政重さまのかかわった人々は、どうしておられたことでしょうか?その動向をいくつか記しておきたいと存じます。 まずは蒲生秀行さまでございます。秀行さまは、北の関ヶ原の戦いで、上杉景勝の動きを抑え込んだということで、東軍...
大坂冬の陣、夏の陣
家康公が秀頼さまと面会した二条城の会見、慶長16年(1611)3月28日から、家康公は豊臣氏滅亡の謀略を急速にスピードアップいたします。乱世を収めた秀吉公と、信長の血を引く秀頼さまは当時17歳の青年、一方の家康公は69歳の老人。自分が豊臣氏の息の根を止めない限り、応仁の乱以...
御朱印船に乗り組み、人生のリセットを考えた政重さま
若者が、それまでの人生をリセットしたいと考えた時、どんな行動に及ぶのでありましょうか?そう考えると、「ここではない、どこか」を目指して明日をも知れぬ遥かな旅に出るのが、よくありがちなパターンです。 家族や友人、組織や会社の中でそれなりに過ごす生活を抜け出して、どこか辺境の地...
秀忠公に仕える御書院番士ながら、政重さまの不明の7年間を考える
井上清兵衛政重さまの兄上は、井上半之助正就さまと申されます。正就さまは御年3歳の時に(天正8年1581)、浜松城に仕える母親のもとに行き、家康公に知られるようになりまする。天正18年(1590)、13歳となった井上半之助さまは改名して半九郎さまと名乗り、江戸城大奥で当時11...
駿河に引っ込んでいたぶらぶら清兵衛さま
青年、清兵衛さまがお初さまと深い仲になったのはたぶん16歳の時分でありましょう。初陣の興奮が醒めて、清兵衛さまは気持ちの落ち着きを求めたのでございましょうな。それが、当然と言えば当然のお初さまのご懐妊となるわけで・・・。...
17歳で父親となる井上清兵衛政重さま
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いが終わって2年後、やや世情が落ち着いた慶長7年(1602)、忍びの「草」として蒲生家の臣となっていた草の政重は、長男の誕生を迎えます。まだ17歳の歳ながら清兵衛政重さまは父親となったのでございます。...
奥州、関ヶ原の戦い
そして迎えた慶長5年(1600)。この年の1月から徳川家康公は、会津の上杉景勝公に何度か上洛するようにとの使者を送っておられました。景勝公は昨年10月頃、会津に帰国してから、城砦の整備や武器の調達など軍備の強化に努めていたのでございますが、これが「叛意あり」との風聞を生んだ...
新婚早々、会津92万石から12万石の宇都宮へ一気に減封された蒲生秀行さま
慶長元年(1596)11月5日、家康公の三女、振姫さまは会津若松の蒲生家へと輿入れなさいました。お相手の蒲生秀行さまは13歳で、正室となる振姫さまは16歳という年上女房でございます。この縁組で、蒲生秀行さまは徳川一門の大名になったとも申せましょう。この振姫さま御一行の人数や...