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家光に付属する最初の家臣団として

 豊臣家を滅ぼした家康さまは翌、元和2年(1616)4月17日に亡くなられます。まさに「人の一生は重い荷を背負って行く」ような人生でございました。とはいうものの、長年続いた戦国の世をひとまず終わらせ、人々がとりあえずは平和に暮らせる世を作られたということでは、まことに大きな功績を残された方だと思うのであります。21世紀の戦略家として著名なエドワード・ルトワック氏は、その最新著「戦争にチャンスを与えよ」(文春文庫)の中で、徳川家康さまに「最高の戦略家」として高い評価を与えておられるのでございます。

 いよいよ2代将軍秀忠さまの時代となりました。前年の末に、家康さまは竹千代(後の家光)を世継ぎとすることを決定しておられました。そして家光さまに付随する家臣団の形成が徐々に始まのでございます。そして元和2年(1616)5月29日、酒井忠利さま、内藤清次さま(政重さまの上司でございます)、青山忠俊さまの3名を家光付き年寄りとし、9月15日に中根正盛さま以下61名が家光さまに付属することになりました。

 この61名の中に井上政重さまも入っていたのでございます。政重さま31歳、まさに中堅幹部の侍でございました。若くして蒲生家への隠密(推測)、長じては御朱印船番士として東南アジア各地で情報収集に励み(推測)、大坂夏の陣では甲冑に得物を持って戦い、首級1つをあげ、代々徳川家譜代の武士として生き延びてきた井上政重は、こうして家光さまに仕えることとなったのでございます。政重さまの収入面を見ますと、この元和4年(1616)に、それまでの切米(米の現物支給)による収入から、500石の知行地(場所は不明ながら)を得たとの記録がございます。それもこの人事によるものでございましょうな。

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