政重さまの正室は、由緒正しき太田道灌の流れのお嬢さまでありました
- ryokurinken
- 2017年4月30日
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お武家さまは世継ぎをちゃんと残さねばなりませぬ。それは、お家の存続をなによりも大事と考えたためでございましょうが、その祝言には惚れた晴れたで片が着く庶民とはまたちがったご苦労もおありだったようでございます。
井上政重さまのご正室は、11歳年下の太田重政さまのご息女でございます。その方の墓所は東京都文京区本郷にあります浩妙寺でして、浩妙院殿法真白経大姉という戒名が墓石に刻まれております。政重さまの墓所、巣鴨の染井霊園とはまったく違う場所にあるということも講談師の想像力を誘ってしまうのでありますなあ。
江戸の地に最初に城を築いたのは、太田道灌さまでございます。「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞかなしき」という歌にまつわるお話は有名でございますが、その太田道灌さまの系譜に連なるということは、なかなか由緒あるお家柄ということになります。
また当時の井上家は、井上正就さまが秀忠公の側近として非常な評価を受けていた時代でございます。兄ほどエリートじゃなくて、徳川譜代の家臣としていくつかの失敗をしてはいるものの、まあまあ納得するお相手として、井上政重さまは先方に映ったのではないでしょうか。
縁組がまとまったのは大田家のご息女が15歳から18歳の時と仮定すれば、政重さまは26歳から29歳の頃。御朱印船番士として海外へ隠密行をしていた頃から、大坂夏の陣に参戦した頃でしょうなあ。海外との行き来の間に慌ただしく婚礼を挙げたか、大阪夏の陣に出る前に、討ち死にしてもお世継ぎを残せるように、急いで嫁取りをした可能性もあるでしょう。ここで正室のお名前を戒名から一字取って「お妙の方さま」としておきましょうか。
この時、政重さまの脳裏にあったのは、17歳の時に男の子を産ませた「お初」さまのことでしたでしょう。また自分と同じ清兵衛と名乗らせた男の子をどうするか、正室の「お妙の方さま」との間に挟まって苦しんだはずでございます。
そのあたりの記録はなにもございません。ただ政重さまと「お妙の方さま」の間には、子どもが生まれていないことから、二人の間は早いうちに冷え切ってしまったのではないか、と講談師は想像を逞しくするのでございます。
晩年の政重さまの横顔を描いたとある時代小説の中に、小石川の切支丹屋敷に出入りする政重に側室の「お楽の方」という存在を置いております。この時代小説のタイトルは「算聖伝・関孝和の生涯」、著者は鳴海風という作家さんです。
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