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御朱印船に乗り組み、人生のリセットを考えた政重さま

  • ryokurinken
  • 2017年4月6日
  • 読了時間: 4分

 若者が、それまでの人生をリセットしたいと考えた時、どんな行動に及ぶのでありましょうか?そう考えると、「ここではない、どこか」を目指して明日をも知れぬ遥かな旅に出るのが、よくありがちなパターンです。

家族や友人、組織や会社の中でそれなりに過ごす生活を抜け出して、どこか辺境の地へ、苛烈な場で自分がどれほどのものなのか、ギリギリまで試してみたいとひりつくような願望を抱くのでございます。

 そういう時に若者は突拍子もない行動に出るのです。パレスチナやシリアの難民キャンプを訪れる。イスラム国のテリトリーに踏み込んだり、ジハードの戦士になったりする。フランス外人部隊に志願する。ゴビ砂漠の横断やアフガニスタン奥地のワハン回廊への潜入を試みる。アマゾンの辺境民族と共に生活する。などなど普通の生活感覚からすれば「なにもすき好んでそんなことをしなくてもいいのに」という行動なのですが、私にも覚えがございますので、あながちにそういった若者の行動を否定することは出来ません。

 若き日の井上政重さまは、隠密として潜入した先の蒲生家の領国で、キリシタンの娘を愛してしまい、17歳で父親となり、遠州の実家に帰ってぶらぶらしていたところを、秀忠公の乳兄弟である立派な兄上のコネで、なんとか御家人に、御書院番士にしてもらった、といういわば落ちこぼれの23歳の青年であります。

 赤ん坊はどうするの?子を産ませた娘はどうするの?という世のしがらみにびっしりと絡め取られた若い男でございます。そんなダメダメな今までの人生をリセットしようとするなら、日本を離れて海外へと行ってみようと考えても不思議はありません。

 時代は徳川と豊臣の対立が先鋭化していた時代であります。豊臣が頼むとすれば西国大名でありましょうし、西国大名はキリシタンと縁が深いわけでございます。西国大名と戦闘的なスペイン、ポルトガルの宣教師たちが共同戦線を張り、何十門もの大砲を装備した軍船がマニラやマカオからやって来るとしたら、これは徳川方にとって極めつけの悪夢でございましょう。

 キリシタンに詳しいことを逆手にとって、井上政重さまは御家人、御書院番士という身分を離れて、西国から東南アジア各地の情勢を探索する海外隠密を志願されたのではないかと思うのでございます。

 慶長13年(1608)から元和元年(1615)の7年間、もし海外と日本の間を行き来していたとしたら、どんな立場で東南アジアを放浪していたのでしょうか?一番大きな可能性として考えたのは御朱印船の乗組員であります。永積洋子著「朱印船」吉川弘文館によりますと、慶長13年(1608)から元和元年(1615)に発行された朱印状は、合計90通。政重さまの乗る可能性のあった御朱印船はこれだけの数がございました。それが東南アジア各地と日本の間を行き来していたのでございます。

 兄の井上正就については、平戸のイギリス商館長、リチャード・コックスが「井上正就は将軍の御朱印の印鑑の管理人」と記しているほどです。正就は朱印船に投資もしていたので、弟の海外隠密行の手配をすることなど、難しくはございません。政重さまは尾羽根打ち枯らした遠州出身の素浪人として、一旗揚げるべく御朱印船に潜り込んだ、という設定であります。

 この手の御朱印船に乗り込む荒っぽい男たちは、当時の貿易船には欠かせないものでした。貿易船とはいっても何門かの大砲を装備し、海賊を警戒すべく、十分な武装を整え、船内でも反乱や不穏な動きを警戒することが必要です。そこで御朱印船番士ともいうべき腕っ節の強い男が求められたのでございます。長年の戦国時代によって鍛え抜かれた日本人傭兵は就職口も多く、オランダはスペインやポルトガルとの戦争のために日本人傭兵を大量に雇い入れ、最前線に送り込んでいたのでございますから。

 こういう男たちは、関ヶ原の戦いで取り潰された大名の家臣や足軽、雑兵なども多かったことでしょうし、バテレン追放令やキリシタン追放令のため、日本に戻れないキリシタン信仰を持つものも多かったことでしょう。彼らは当然、反徳川であります。

 かくも荒くれた男たちと同じ船に乗り、同じ釜の飯を食い、港へ着けば居酒屋で怪しげな酒に酔っぱらっては、曖昧宿で現地の女を抱く。そんな中で、男たちは自分の境涯や本音、徳川に対する不平不満をぶちまけたことでしょう。それらのナマの情報はまたとない貴重な情報として、浪人に身をやつしながらも、頭の芯では醒めきっていた井上政重さまの脳裏に刻まれたのです。

 おそらく政重さまが足跡を印したのは、上海、台湾、マニラ、マカオといったあたりでしょうか。しかしこれらのお話には何の確証もございません。ただただ講談師の見てきたような嘘なのでございますから。

 
 
 

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