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新婚早々、会津92万石から12万石の宇都宮へ一気に減封された蒲生秀行さま

 慶長元年(1596)11月5日、家康公の三女、振姫さまは会津若松の蒲生家へと輿入れなさいました。お相手の蒲生秀行さまは13歳で、正室となる振姫さまは16歳という年上女房でございます。この縁組で、蒲生秀行さまは徳川一門の大名になったとも申せましょう。この振姫さま御一行の人数や顔ぶれまでは調べきれませんでしたが、先にも述べましたように、ここに当時11歳の井上清兵衛さま、後の井上政重さまが入っていたことは容易に想像できるのでございます。かくして井上清兵衛政重さまは蒲生家の家臣となられました。

 蒲生氏郷公晩年の重臣がたで、自分のお城を持っておられたのは合計15人の多きを数えます。これらの家臣たちの統率に、まだ年若い蒲生秀行さまは悩まされるのでございます。まだ13歳の少年大名でありましたゆえ、やむを得ないことではございましょうなあ。お大名というものはなかなかに気苦労の多いものでございます。

 その翌年の慶長2年(1597)、蒲生郷安さま一派と蒲生郷成さま一派の対立で、郷成さま方の侍、亘利八衛門が殺されるという事件が起きてしまいます。それに対する秀行さまの仕置きが不十分であったとして、秀吉公は、会津92万石から宇都宮12万石へ、なんと約7分の1以下の石高に蒲生秀行さまを減封してしまうのでございました。その後、会津に入られたのは豊臣政権・五大老の一人で、秀吉公と近い上杉景勝公でございました。

 これによって先代の氏郷公が営々と築き上げた蒲生家家臣団はバラバラに崩壊してしまいます。大名として独立する者、秀吉公や家康公に仕える者、新たに入封した上杉景勝公に仕官したものも多かったと申します。

 このやみくもな蒲生家減封の理由の一つとし、当時36歳でありました氏郷公の未亡人・冬姫さまの美貌に目を付けた秀吉公が側室として召し出そうとしたのを、彼女が尼となってきっぱりと拒絶したためとの話も巷間には伝えられております。信長公の次女でありました、冬姫さまは、秀吉公が終生あこがれ続けたお市の方さまに似た美女と伝えらております。その手痛いしっぺ返しの報復として、宇都宮へ秀行さまを減封したという、まことに大人げない自己中な関白様のお話しでございます。

 慶長3年(1598)1月に蒲生秀行さまは宇都宮へと移られました。しかしこの年の8月に豊臣秀吉公が死去。貧しい家から天下人となる異例の出世を遂げられた一代の英雄もやはり死からは逃れることはかないませぬ。そして秀吉公亡き後の激しい権力闘争がうねり始めるのでございます。慶長4年(1599)3月にはさらに前田利家公もこの世を去られ、天下の行く末は徳川家康公と石田三成さまとの衝突というかたちではっきりとした姿を現して来るのでございます。

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