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大坂冬の陣、夏の陣

 家康公が秀頼さまと面会した二条城の会見、慶長16年(1611)3月28日から、家康公は豊臣氏滅亡の謀略を急速にスピードアップいたします。乱世を収めた秀吉公と、信長の血を引く秀頼さまは当時17歳の青年、一方の家康公は69歳の老人。自分が豊臣氏の息の根を止めない限り、応仁の乱以来の乱世は終わることがないと心に深く期するものがあったはずでありましょう。そして自らに残された時間の短さも・・・。

 さもなくば、豊臣秀頼さまの存在によって、反徳川勢力が結集してしまい、徳川氏を中心にせっかくまとまりつつある政治権力を再び分裂させ、大きな戦が起こると、予測したのであります。秀頼さまは、人物としての器の大小に関係なく、反徳川の旗印になるやっかいな存在だったのでございます。

  そんな中で井上正就さまの動向を記しておきましょう。元和2年(1614)大久保忠隣失脚事件に関係して、家康公が秀忠公の側近8名から、誓書を出させております。その一人に井上正就さまの名がございました。正就さまは当時江戸老中を務めておられましたが、江戸老中は後の若年寄に相当する役職であります。正就さまは徳川幕府の中で着々と地歩を固めていったのでございます。

 一方、家康公はさんざん政治的ないたぶりやゆさぶりを豊臣側にかけながら、出兵の時期を虎視眈々と狙っておられました。

 井上正就さまは秀忠公付きの武士として、大阪の陣に従軍なさいます。秀忠さまはかつての関ヶ原の戦いの時に、真田勢に振り回され、合戦に遅参するという大失敗を何とか挽回しようと躍起になっておられました。

 家康公が駿府を出たのが慶長19年(1614)10月11日。京都、二条城に10月23日に到着。この同じ日に秀忠公も6万という大軍を引き連れて江戸を出発なさいます。急ぎに急いだため、11月1日に岡崎についたところで、父、家康公からの飛脚と出会い、その書状にて強行軍をたしなめられているほどでありました。

 秀忠公が家康公と京で合流したのは11月10日。なんと秀忠公は江戸から京都までわずか17日で6万の大軍を駆けに駆けさせたのであります。そして軍議の場で、秀忠公は大阪城の即時総攻撃を申し出ました。しかし、多大な犠牲を払うであろう力ずくの城攻めは家康公が却下。じりじりと大坂方を包囲する作戦になったのでございます。

 11月15日、家康公は二条城から出発、秀忠公も伏見城から枚方を経て平野へ着陣。天王寺で家康公を迎え、家康公は住吉に本陣を置きました。

 11月19日、家康公と秀忠公は連れだって茶臼山に上って、陣立てを眺めますが、この日から豊臣軍との本格的な戦いが始まったのでございます。

 秀忠公はやがて岡山に本陣を移されます。この岡山とは現在の大阪市生野区勝山北にある御勝山古墳がそこにあたり、大阪城をはるか北に臨むところでございます。家康公も12月に入って茶臼山に本陣を移されます。このころから和議が本格化していくのでありますが、秀忠公は12月5日に土井利勝さまを家康公の陣に送り、講和に反対し、一斉攻撃で大阪城を陥落させるべし、と申し入れをなさいました。しかし家康公はこれに反対し、自分の命令に従うよう伝えさせます。秀忠公はなおご不満ではありましたが、本多正信さまに説得されてしぶしぶ納得されたのでございます。

 かくして12月19日に和議が成立し、大阪城の外堀を埋めることが条件となります。家康公は12月25日に茶臼山を引き上げましたが、秀忠公はそのまま岡山の陣に残り、年を越して埋め立て工事の状況を確認した上で、翌年慶長20年(1615)1月19日に兵を引いて伏見城へ戻られたのでございます。ちょうど1か月で、巨大な大阪城の堀を埋めてしまったのですなあ。まさに突貫作業でございます。今の時代でも、大阪城の内堀と外堀全部を埋めるのは、ブルドーザー、パワーショベル、ダンプカーが連日、何台もひっきりなしに動いていないとできないことでございましょうから。

 ほぼ人力しかない時代に、1か月で堀の埋め立て工事を実施するというのは恐るべき作業効率であります。戦に集まった諸大名の約20万人の兵卒を一気に投入した人海戦術だったのでございましょう。かつての秀吉公の出世の始まりとなった墨俣築城を驚く向きもございましょうが、大阪城のお堀埋立はそれをはるかにしのぐ驚くべき土木工事だったのでございます。

 そして元和元年(1615)1月27日、井上正就さまは従五位下主計頭に叙任され、御小姓組番頭を勤めることにあいなります。これは、大阪冬の陣で何らかの大きな功績が井上正就さまにあったため、と考えるのが普通であります。

 しかし、そこには弟君の井上政重さまの姿はないのでございます。講談師の想像では、政重さまは戦に逸る秀忠公の動員令を受けることの出来ない海外にいたのでございますから。風雲急なるを感じ取って、急ぎ朱印船に乗って、日本に帰る航路上にあったのかもしれませぬが、大坂冬の陣に参陣することは叶わなかったのでございます。

 豊臣家を最終的に滅ぼした大坂夏の陣は、その3か月後。元和元年(1615)4月24日から先鋒がぶつかり合い、5月5日に家康公は二条城から、秀忠公は伏見城から出陣されます。家康公は河内星田に、秀忠公が本陣を置いたのは前と同じ岡山でございました。慶長20年(=元和元年・1615)5月7日の正午頃、天王寺口から聞こえてきた銃声に呼応し、秀忠さまは待ちに待った開戦の命令を発したのでございます。

 秀忠公率いる徳川家正規軍2万の軍兵の中に、甲冑に身を固めた政重の姿があったのでございます。政重さまにとって大戦(おおいくさ)に身を置いたのは、これが初めてのことでございましょう。

 家康公は天王寺口から、秀忠公は岡山口から、それぞれに大阪城へと攻めかかったのでございます。しかし天王寺口で家康公は、戦巧者の真田幸村に本陣にまで攻め込まれ、危うく討死するところでございました。

かくして豊臣方、徳川方の将兵が激しく入り乱れて混戦を繰り返します。旗本の1隊が崩れたのを見て、秀忠公自身も槍を執って敵中に突入しようとしたのを、押し止められたという一幕もございました。しかし数に勝る徳川方がじりじりと敵を圧倒していき、午後4時頃までに豊臣方のほとんどが敗退いたします。政重が首級を挙げたのは、この岡山口の戦いであったかと存じます。

 そして大阪城が紅蓮の炎と黒煙に包まれたのは午後5時頃と申します。翌5月8日、秀頼母子と主従は自害して果てられます。豊臣家は滅亡し、大阪夏の陣は終わったのでございます。この戦いで井上正就は首級6つ、井上政重は首級1つを挙げたことが、寛政重修諸家譜には記されておりまする。

 その後、秀忠公の岡山陣屋では大坂の陣戦勝を祝う宴が盛大に開かれました。あちこちで篝火が赤々と焚かれ、祝い酒に酔い、声高に談笑する秀忠公配下の武将たちを、30歳の井上政重さまはどんな思いで見つめておられたのでございましょうか。

 栄耀栄華を誇った豊臣氏があっという間に滅亡し、贅を尽くした大坂城も灰燼と帰す。時代が激しく移り変わっていくことを政重さまはその目で見て、その耳で聞き、その場に立っておられました。

 宴席に連なることをまだ許されない身分の武士たちには、豊臣方の落人たちの探索、追及といった忍耐を要する仕事や、処刑や晒首など血脂に塗れる汚れ仕事を黙々と果たさねばならなかったのでありますが。

 徳川による大坂方の残党狩りは熾烈を極めたものでございました。5月23日にはわずか8歳だった秀頼の遺子、国松を六条河原で処刑いたします。また各地で捕えられた落人たちの斬られること、日に五十人百人にも及び、京から伏見にかけて18列の棚を作り、一列に1千以上もの、捕えられ、斬られた落人の生首をさらしたと伝えられているのでございます。嗚呼、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

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