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蒲生家のその後、断絶に向かう内紛続きで

 政重さまにお子が生れてから、青春的放浪を繰り返していた時期、政重さまのかかわった人々は、どうしておられたことでしょうか?その動向をいくつか記しておきたいと存じます。

 まずは蒲生秀行さまでございます。秀行さまは、北の関ヶ原の戦いで、上杉景勝の動きを抑え込んだということで、東軍のなかでも最上級の評価を受けられます。没収された上杉領から陸奥を与えられ、慶長6年(1601)8月24日に会津・陸奥60万石へ堂々と復帰されます。懐かしい会津若松の鶴が島城に秀行さまは戻られたのでございます。

 とはいえ年若い秀行さまには補佐役が必要でございました。そこで執政に津川城代2万石の岡重政さまを任じられたのですが、そのために一時治まっていたご家中の内紛が再燃してしまい、岡さまと激しく対立された三春城代・蒲生郷成さまはついに出奔されてしまいました。

 岡重政さまの兄上、岡左内さまは蒲生家が所領を減らされ宇都宮へ移った時、上杉景勝さまに仕え、直江兼続さまとも親しかったとのこと。左内さまは利殖に巧みで、部屋に金銭を敷き詰めて、その上で裸になって昼寝をするのが楽しみだったという逸話もございます。とはいうものの、金銭には恬淡としていたようで、戦備に借金を申し込む朋輩などに快く応じたり、臨終に際しては借金証文を残らず焼き捨てるよう命じ、それを見届けて息を引き取られたとの逸話もございます。

 また岡左内さまは熱心なキリシタンで、私財を以って教会や神学校を建てて、神父を呼んで布教に励まれたゆえに、猪苗代城代の頃には領民のほとんどがキリシタンになったと伝えられております。甲冑は、南蛮伴天連より贈られた「角栄螺の甲」と「鳩胸鴟口の具足」を身に着けましたが、これは西洋甲冑ではないかといわれております。おそらく弟の岡重政さまもキリシタンの信仰をお持ちだってのでありましょう。後にそれが悲劇の原因ともなったのでありますが。

 家康さまの3女・振姫さまの婿殿として蒲生秀行さまは慶長12年(1607)に松平姓を与えられます。これで名実友に徳川の御一門衆になったということなんでしょうな。もっと下世話に言うならば、振姫さまの尻に敷かれた状態が確定したということなのでありますなあ。

 慶長16年(1611)、今の大沼郡三島町を震源としてマグニチュード6.9の会津地震が蒲生領を襲います。倒壊家屋2万戸、死者3700人、山崩れで23カ所もの村が没するという直下型の大地震でございます。本丸の鶴が島城も天守閣が傾くなどの被害でございました。この復興に大変なご苦労をされたのが、蒲生秀行さまであり、岡重政さまでありました。

 残念ながら蒲生秀行さまは、種々の御心労のためでありましょうか、翌年の慶長17年(1612)5月14日に30歳の若さで死去されます。その跡を継がれたのは、まだ10歳の蒲生忠郷さまでございます。蒲生のご家中では母君で忠郷さまの後見人・振姫さまの一派と、家老の岡重政さま一派との対立は激しさを増すばかりでありました。結局、振姫さまの直訴によって、岡重政さまは駿府の家康さまのもとへ呼び出され、そこで死を賜ったのでございます。そこには先鋭化してきた徳川家によるキリシタン取締りの影響もあったことでございましょう。

 振姫さまは元和元年(1615)、家康さまの命により紀伊和歌山藩浅野長晟さまとの再婚が決まります。こうして蒲生氏郷以来武門の名族として続いてきた蒲生家は家康さま-振姫さまラインによって巧みな弱体化が謀られていったのでございましょう。振姫さまのお見事なさげまんぶりでございます。

 振姫さまは元和2年(1616)4月、浅野家へお輿入れなさり、翌年元和3年(1617)に浅野光晟さまをお産みになりますが、当時37歳という高齢出産で無理がたたったのか、その16日後に亡くなられたのでありました。

 蒲生忠郷さまも寛永4年(1627)、26歳の若さで死去されます。本来ならここで蒲生家断絶と相成るところ、弟の蒲生忠知さまが跡を継がれ、四国の伊予松山24万石として、存続を許されたのでございます。

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