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17歳で父親となる井上清兵衛政重さま

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いが終わって2年後、やや世情が落ち着いた慶長7年(1602)、忍びの「草」として蒲生家の臣となっていた草の政重は、長男の誕生を迎えます。まだ17歳の歳ながら清兵衛政重さまは父親となったのでございます。

 男というものは、戦いから生きて帰ってくるとどうしても女の肌に安らぎを求めてしまうようでございます。生きるか死ぬかの修羅場をくぐりぬけてまいりますと、生きものの適者生存の法則に従って、猛然と繁殖意欲が湧いてくるのでございましょう。その好例が太平洋戦争が終わって、復員した兵隊さんたちが頑張ってしまった戦後のベビーブームでございます。その時期に生を享けた団塊の世代が、その後の日本経済の中で大きな影響力を持ったのはマーケティング的な事実でありますなあ。

 若い活力に満ちた井上清兵衛政重さまが愛した娘さんはどんな方だったのでございましょうか?しかし母となったお相手の女性については寛政重修諸家譜巻第二百四十三では、ただ某女とあるのみなのでございます。清兵衛さまの17歳という年齢と、相手の女性の名が伏せられているということから、講談師はいろんな想像力を発揮してしまうものでございます。大体、不都合な真実は表立っては書かれないものでございますから。

 もし清兵衛さまが好きになって、深い仲になったのが、徳川家から輿入れした振姫さまにお仕えしていた女の子でありましたら、同じ系統の家臣のはずですから何の問題もなく「何々氏の女」と書かれていたはずでございましょう。

 17歳といえば今の高校生です。たぶん清兵衛さまにとっては初恋だったのではないでしょうか。そんなに年齢が違わない女の子でしょうから、やはり今の高校生か中学生の年齢でしょう。初恋にして、初めての人で、それで初めてお父さんになってしまった…。しかしその女の子が表立って記録に残してはいけない立場の女性だった…。政重さまが正室を迎えたのはもっと後のことで、寛政重修諸家譜には「太田新六郎重正が女」と堂々と明記されておりますから。

 蒲生家という敵地に忍んでいる隠密としては、清兵衛政重さまが父親になったということは大いなる失敗であったかもしれませぬ。身分違いの娘だったか、探索する対象の蒲生家に連なる娘さんだったのかもしれませぬ。 

 振姫さまの夫君、蒲生秀行さまの父、氏郷公はレオンという洗礼名を持っていたキリシタン大名でございましたから、蒲生御一族や家臣の方々の中に何人ものキリシタンの信仰をお持ちの方がおられたことでしょう。蒲生領内には神学校、セミナリオまであったと言われておりますから、キリシタンの影響はさぞかし強かったことでございましょう。ひょっとして、清兵衛政重さまが愛されたその娘さんはキリシタンの信仰を持っておられたのではないかと、講談師は考えるのでございます。

 ここで講談師は、その娘さんに名前を付けてみたいと思いまする。うーむ、そうだなー「初」という名はいかがでございましょう。かりそめの名前ながら「お初」「初女」ということにして、この講談を進めていきたいと存じます。

 キリシタンでは結婚は神聖な絆、デウスさまの御前で結婚の誓いをしたからには、それを破ることは許されませぬ。また初めて好きになった女の子ですから、清兵衛政重さまは相手のお初のことを全部知りたいと若々しい恋の情熱を傾けたに違いないのでございます。やっぱり「恋は盲目」状態で、突っ走ってしまったのでございましょうか?

 深い男女の仲になっていくにしたがって、お初も清兵衛政重さまにキリシタンの信仰のことをいろいろとお話ししたに違いないことでしょう。当時のハイカラ文化である南蛮への憧れをもっていたりすると、清兵衛さま自身もキリシタンの知識をどんどん吸収していったに違いございません。あるいはキリシタンになろうと考えたのかもしれませぬ。

 「清兵衛さま、デウスさまというのはこんな神様なんですよ」とか「イエズス・キリストというお方は、あらゆる人の罪を一身に背負って、十字架にかけられた方なんですよ」などと、初女は瞳をキラキラさせて、恋しい清兵衛さまにお話になったのでしょう。

 そういった深い理由まで考えないと、後に切支丹改めとなった筑後守政重さまのキリスト教への理解、キリシタンの取締りや仕置きの巧みさ、時として温情溢れるかのような硬軟取り混ぜた対応を理解することは出来ないと思うのでございます。

 清兵衛さまとお初が逢引きを重ね、深い仲になっていくにしたがい、お初は清兵衛さまと晴れて夫婦となって、一緒に暮らすことを夢見ていたに違いないのであります。たとえ蒲生家と徳川家というそれぞれがお仕えする家の違いはあったとしても、お初の胎内に宿った小さな命にはそんなことは関係ないのでございます。たとえば、井上家の次男であった清兵衛さまがお初の家に婿として入り、蒲生領の宇都宮近辺で田舎侍として夫婦仲良く静かに暮らすという選択肢もあったかもしれませぬ。

 しかし、清兵衛さまはやっぱり徳川家の隠密であったのでした。あるいは振姫にお仕えする周囲の徳川の家臣から強く諌められたのでございましょう。おそらくは振姫付きの訳知りの老女か従僕かが、事態を収拾したのでございましょう。

 清兵衛さまは、この男の子が生まれた時に、すでにキリシタン的にいうならば「背教者」でありました。この世の徳川の側に立ち、愛するものを捨て、産ませた赤子も捨てた若者であります。

 清兵衛さまとお初は、幸いにも「ロメオとジュリエット」にはなりませんでした。恋い焦がれ、愛し合い、子までなした二人は、共に生き続けたのでございましょう。森鴎外の「舞姫」のような結末に近いのかもしれません。エリスの立場である、蒲生家に連なるお初は物狂いもせず、その後の世を生きて、井上筑後守政重さまの生涯にさまざまな影を落としながら、政重さまとは全く別の道を歩み、一生を終えた、と講談師は考えたいのであります。

 後にキリシタン弾圧で悪名をはせた井上筑後守政重さまには、キリシタンに関係した女の子を愛して、子まで産ませたという不都合な真実は、やはり隠し通さねばならないことであったのでしょう。それは幕閣という建前しか許されないような世界で、政重さまご本人の心の中に鋭い棘として、ずっと突き刺さったまま、生々しい血を流し続けることであったはずなのです。

慶長10年(1605)、徳川家康公は征夷大将軍を秀忠公にお譲りになり、慶長12年(1607)に江戸城を去って駿府に移られました。そして井上政重さまはその翌年の慶長13年(1608)に秀忠公付きの御家人としての出仕を始められたのでございます。10年以上、蒲生家の内情を探り続けた隠密の時代は終わったのでございます。政重さまは23歳。御書院番士という秀忠公の直属軍の一員となられたのでございます。

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