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秀忠公に仕える御書院番士ながら、政重さまの不明の7年間を考える

 井上清兵衛政重さまの兄上は、井上半之助正就さまと申されます。正就さまは御年3歳の時に(天正8年1581)、浜松城に仕える母親のもとに行き、家康公に知られるようになりまする。天正18年(1590)、13歳となった井上半之助さまは改名して半九郎さまと名乗り、江戸城大奥で当時11歳の秀忠公(もうすでに元服されておられました)の御小姓となり、禄高は150石。その後、小納戸番頭を経て、慶長9年(1604)には御徒歩頭となられました。

 兄君、正就さまがお仕えした秀忠公は慶長10年(1605)に征夷大将軍に任じられましたが、駿府の大御所・家康公は自ら確立した権力を手放さず、豊臣氏の勢力を削ぎつつ、滅亡に追い込む布石を次々に打っていかれます。この老練かつ陰険な政治手腕はまさに家康公ならではのものでございましょう。

 そのような時期に、浪人していた井上清兵衛政重さまは慶長13年(1608)に秀忠公付きの御家人となりました。それは将軍秀忠公の直属の兵力、御書院番士として、米200俵が給されたとのことでございます。上司は当時31歳の内藤清次さまでした。

 一応の身分を得た政重さまの記録はしばらく途切れます。次に寛政重修諸家譜にあらわれる記録は「元和元年(1615)大坂御陣にしたがひたてまつり、政重が手に首一級を獲たり」というものです。この7年間、政重さまは御家人勤めを平々凡々となさっていたのでございましょうか?

 私が引っかかったのは「元和元年大坂御陣」というくだりであります。大坂の陣は冬の陣が慶長19年(1614)10月から12月、夏の陣が慶長20年=元和元年4月から5月であります。徳川が総力を挙げて豊臣を葬り去った戦いに、徳川譜代の家臣である井上政重さまが、夏の陣にしか参戦していないというのはなんとも不思議なのでございます。政重さまの仕える秀忠さまは、かつての関ヶ原の戦いで中山道途中の真田攻めに手間取り、遅参したという大失態を演じております。それを挽回せんものとの意気込みは凄まじいものがあったはず。へたれの二代目将軍の汚名をそそぐのはこの機会しかなかったのでございますから。

 秀忠配下全軍の動員をかけたのにもかかわらず、井上政重さまはそれからこぼれ落ちているのでございます。そこで講談師の妄想が始まるのでございますが、ひょっとして政重さまはその知らせの届かないところに居たのではないでしょうか?つまり外国に、秀忠公の動員令の届かぬ海外に、でございます。

 その傍証として、晩年の政重さまがオランダ人と会見した折に、台湾やフィリピンに関する正確な知識を披露しているところからも、推察されるのでございます。

 まず寛永18年(1941)、政重さま56歳の時、長崎にてオランダ商館長ルメールさまと、台湾の基隆攻撃について話し合い、翌年オランダが基隆を攻撃し占領すると、その情勢を子細に尋ねているのでございます。

 また寛永20年(1643)、には、江戸に滞在中のオランダ商館長エルセラックさまとフィリピン、マニラの情勢について話し合った際に「大目付(井上政重)はマニラの地図二枚を示し、イスパニアの諸堡塁の位置と構造、港の入口、諸船碇泊の水深、主城の位置などを話した」とあり、以下、大砲、マスケット銃、短銃、火薬の備蓄、兵士の数、人口とその構成、兵站状況など、オランダ人が驚愕するほど詳細な情報をお持ちだったのでございます。

 情報として、これらの要素を的確に把握するためには、井上政重さまご自身が、かつてこういった地へ実際に足を運ばれたのではないかと考えるのが自然なのでございます。

 今のようにいくらネットが発達し、色々な虚実取り混ぜた情報が玉石混交で流れているとはいえ、現場に行って、その地を知っていることは千金の重みを持っております。いわんや、イミント(画像情報)、シギント(信号情報)が絶対的に乏しく、主にヒュミント(人的情報)に頼らざるを得なかった江戸時代初期の世界では、まず人がそこへ行くことが一番の情報活動だったのでございます。

 さて、政重さまはどのようにして海外へ、東南アジアへ足跡を印されたのでございましょうか?

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