奥州の抑え、会津若松の蒲生家
もともと徳川譜代の家に生まれ育った井上政重さまの生涯の経歴の中で、「かつて蒲生家に仕えていた」と言われる部分がございます。私はここになにかすっきりしない違和感をずっと持ったままでございました。
近江三上山の大ムカデを退治した平安時代伝説の武将、俵藤太(藤原秀郷)を祖とする蒲生氏郷公は、織田信長公に早くからその才能を見い出され、信長公の娘、冬姫を娶り、赫々たる武勲に輝く戦国大名の一人でございます。また利休七哲の一人として茶道にも優れ、高山右近のお導きによって、キリシタンに帰依し、レオンというクリスチャン・ネームもお持ちだったとのこと。
信長公が本能寺の変で横死なさいますと、秀吉公に仕えて功績を重ねられ、天正18年(1590)に北条氏が滅ぼされた後の奥州仕置で、陸奥の会津に42万石(後に検地・加増により文禄3年(1594)には92万石)の大領地を与えられます。これは即ち関東八州の背後から、徳川家康公を抑え、睨みを効かせる大役を担うことでもございました。
氏郷さまの知行は、伊勢松坂(三重県松坂市)12万石から会津若松で最初の42万石(3.5倍)から、最終的に92万石の7.7倍の規模にまで、急速に拡大したのでございます。それだけの領地を治める家臣たちも、いきおいあちこちから寄せ集めた急ごしらえのものとなってしまいます。もちろん氏郷公の武名を慕って腕自慢の牢人たちが各地から集まってきたのですが、彼らをまとめるには並々ならぬ器量が求められたのでございます。急に巨大化した蒲生家中は、有力な武将たちが張り合いながらも、氏郷公の雅量でなんとか折り合いをつけていたというのが現状であったことでしょう。そのためか、氏郷公は功績のあった家臣に蒲生の名を与えて、同名衆として結束を図ろうとしたようでございます。もっともそんな蒲生の名の乱発を前田利家公にたしなめられたりしているのではございますが。
氏郷公が苦労した一例を挙げてみることにいたしましょう。文禄元年(1592)、文禄の役で蒲生氏郷公が肥前名護屋に出陣していた最中に、国許の会津にて重臣の間の紛争が起きたのでございます。出羽米沢城(山形県米沢市)の蒲生郷安(がもうさとやす、旧名・赤座隼人、六角家に仕え、牢人後蒲生家に、?~慶長5・1600?)と、出羽山中城(山形県上山市)の蒲生郷可(がもうさとよし、旧名・上坂左文、浅井長政・柴田勝家家臣、牢人後蒲生家に、?~慶長3・1598)はかねてより仲が悪く、それぞれの家臣が相手の家中に奔り、そのまま召し抱えられるなど、さまざまな問題を起こしておりました。文禄元年(1592)6月に郷安方が逃亡した家臣を取り戻そうとして郷可方に大勢で押しかけて、なんと合戦になってしまったのでございます。陸奥白石城(宮城県白石市)の蒲生郷成(がもうさとなり、旧名・坂源次郎、柴田勝家家臣、牢人後蒲生家に、?~慶長19・1614)らの仲裁で、重大な事態は避けられて、一応騒動は収束したことがございました。こういった家中のごたごたは後の蒲生騒動となって改めて表に噴き出してくるのでございますが…。
氏郷公は、肥前名護屋の陣中で体調を崩し、文禄2年(1593)11月に会津に帰国、翌文禄3年(1594)春に養生のため上洛するも、文禄4年(1595)2月7日、京都の蒲生屋敷にて病死なさいます。享年40歳。あまりに若い死でございました。
氏郷公という逸材を失った豊臣秀吉公にとりまして、奥州の不穏な動きを抑えることが最も緊急を要する政治的な問題となってまいります。氏郷公の嫡男、鶴千代さまは京都・南禅寺に預けられておりましたが、氏郷公の死後わずか2日の2月9日に秀吉公からの朱印状を与えられ、遺領の相続が認めらます。元服して、蒲生秀行となったまだ12歳の少年に会津92万石の責任が突然ずっしりとのしかかってきたのでございます。
蒲生氏郷公の嫡男にして、織田信長公のお孫さまという武家の名門の血を引いていても、そんなものは何の役にも立たない生臭い政治の現場に突然放り込まれてしまったのが、蒲生秀行さまだったのでございます。