政重さまの父上、清秀さまの転戦
父・清秀の転戦
井上清兵衛、後の筑後守政重の父・井上清秀さまは戦場往来に多忙を極めておられました。清秀さまが織田家、佐久間信盛さまの配下から、天正4年(1576)頃に松平家中に戻って、仕えていましたのは、徳川二十将の一人に数えられる大須賀康高さまでございます。当時の大須賀康高さまは、天正2年(1574)から始まった武田氏の押さえていました高天神城を攻略する先兵として馬伏塚城(現在の静岡県袋井市浅名)におられたのです。
この松平家中に戻った頃と推測するのですが、井上清秀さまは再婚されるのです。先妻は服部氏の娘とのことで死別したのか離縁したのか、確かなのとは分かりませぬが、この先妻との間に重成という息子があって、別に家を立てておられます。
清秀さまの再婚相手は遠州丹野(現在の静岡県掛川市)に住む永田氏の娘でありまして、彼女は正友さま、正就さま、政重さまと3人の息子をお産みになりました。正就さまが生まれた時、清秀さまは44歳。後妻の永田氏とはかなり歳の離れたご夫婦だったことは容易に想像できるのでございます。井上清秀さまは大須賀康高さまにずっと従ったと推察いたしますと、天正9年(1581)まで高天神城の攻略に当たり、天正10年(1582)には武田家滅亡の戦後処理で甲州に進駐し、8月には大豆生田(まみょうだ)砦(現在、山梨県北杜市須玉町大豆生田)で、北条氏直の軍と対峙したことになりまする。
それから大須賀康高さまは、天正12年(1584)には小牧長久手の戦いに出陣、白山林(現在、名古屋市守山区本地ケ丘)の戦いでは、三好秀次(後の関白、秀次)の軍8千を潰走させます。さらに天正13年(1585)の第一次上田合戦(現在、長野県上田市)では真田勢の巧みな用兵に翻弄される徳川勢に、援軍として派遣されているのでございます。
この年、天正13年(1585)に政重さまは産まれていますが、父・清秀さまは52歳、もう初老といっていいお年でございます。
関白となった秀吉公は天正15年(1587)になりますと九州を平定いたします。天正17年(1589)には父・清秀さまの仕えていた大須賀康高さまが亡くなられて、その後を養子の大須賀忠政さまがお継ぎになります。天正18年(1590)になると、秀吉公は小田原城を囲んで北条氏を滅ぼし、そこで論功行賞を行います。その最大のものは、徳川家康公をそれまでの三河、遠江、駿河、甲斐、信濃から、北条氏の支配した関東八州へと移したことでございました。
さらに秀吉公は征討の軍を東北へと進められ、10日間ほど滞在した宇都宮の地にて奥州仕置と呼ばれる奥羽の諸大名たちに対する本領安堵、改易、減封などを行われ、その支配体制を決定づけてまいります。その中で最も重要でありましたのは、それまで伊勢松坂13万石の蒲生氏郷公を、会津黒川の42万石へと封じたことでございます。これは蒲生氏郷公に、秀吉公最大のライバルである、関東の徳川家康公の背後・奥州から睨みを効かせ、伊達氏、最上氏をはじめとする奥州諸大名の喉元を抑え込み、越後の上杉氏を牽制する重要な役目を与えたものでございました。その拠点が、現在の福島県会津若松なのでございます。