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南蛮、海外への憧れを持った子どもだったかも

  • ryokurinken
  • 2017年1月13日
  • 読了時間: 2分

 もう一つ、井上清兵衛の子ども時代を彩ったものとして、海外への憧れがあったように思うのでございます。

そのように想像しますのは、父・清秀さまが仕えられた武将、大須賀康高さまが築いた横須賀城の構造からでございます。

 この横須賀城は、遠州灘に面し、3階4層もの高い天守閣を誇っておりました。海に面したこの城には、直下に港がございまして、高天神城攻略の物資が次々と運び込まれていたはずでございます。

 眼下の遠州灘は遠浅の砂浜海岸が、静岡県御前崎から愛知県伊良湖岬まで約110キロも続いております。この海域は太平洋に面し、風波が荒く、また地形的に避難港も少ないため、現在でも海の難所でございます。

 その途中にある横須賀城下の港は、遠州灘を行き交う船に睨みを効かせ、荒天の時には避難港となったはずであります。

 横須賀城下の港には、西国、東国からの船が何隻も出入りして、幼子清兵衛クンの好奇心を刺激したことでございましょう。地理的に申しましても、西の伊勢志摩、三河湾と、東の伊豆半島をつなぐ海路の中継港の一つなのでございますから。

 かつて遠州の海は、今川家配下の水軍が行き来しておりました。それを今川家の没落の後、武田家が吸収いたしましたが、さらに武田家の滅亡で、徳川家の差配する海となったのでございます。とはいえ、陸の組織や支配機構よりもはるかにダイナミック、はるかに融通無碍なのが海での活動でございます。長年の海の慣習が徐々にまとめられ、室町末期に成立したと伝えられる廻船式目が、日本の慣習的な海法として、海という無限の舞台で活動する人々の守るべき掟でございました。

 当然ながら各地からの物資や文物が横須賀城下の港に集まってまいります。各地とは日本各地はもちろんのこと、遠く南蛮からの文物もあったことでございましょう。ギヤマンの器、アラックの蒸留酒、キリシタンのクルスの輝き、金平糖やカステラのびっくりするような味、それら珍しい品々に子どもの井上清兵衛クンはさぞや心を躍らせたことでございましょう。また秀吉公が突如始められた文禄・慶長の役(1593―1598)という朝鮮半島への大がかりな2度にわたる出兵も、清兵衛クンの海外への知識欲や憧れを刺激したの違いありません。

 武士の家に生まれ、家康公という日本の最高権力者とかなり近いところにあって、兵法や忍びの修行に励み、海の向こうへの憧れを胸に抱く子ども、それが井上清兵衛クン、後の井上政重さまなのでありました。

 
 
 

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