子ども時代の井上清兵衛クンは
徳川方譜代の武将に仕え、自分の家も三河時代から徳川家3代に仕えるという、徳川さまとの因縁浅からぬ井上家に生まれた井上清兵衛、後の政重さま。
家康公を、今の時代の総理大臣か有力な閣僚にたとえるといたしますならば、静岡県知事付きの県会議員か市会議員の息子、といったところになりましょうか。
子どもの頃より、当時の武士としては当然のたしなみ、つまり戦闘技術、戦術、戦略といったさまざまな兵法を学んだことでございましょう。
後の江戸時代に言われる武芸十八般とは、弓術、馬術・騎馬術、水術(泳法術)、薙刀術、槍術、剣術、小具足、棒術、杖術、鎖鎌術、分銅術、手裏剣、含針術、十手術・鉄扇術、鉄鞭術、居合・抜刀術、柔術・和術、捕手術、もじり術、しのび(隠形)術、砲術のことを申します。これをそのまま今の時代の軍事技術に置き換えますと、ライフル・サブマシンガン・ハンドガンなどの射撃、自動車・バイク・戦闘車両などの運転、水泳・スキューバダイビング、ナイフ・ファイティング、銃剣術、総合格闘技、パラシュート降下、無反動砲、歩兵携行型ミサイル、迫撃砲、爆発物取扱い、工兵技術、各種通信、情報・偵察活動といった、現代の専門的な兵士、あるいは特殊部隊員が一応見につけておくべき技術になることでございましょう。
武芸十八般の中に、しのび(隠形)術がございますが、これは武士と忍者がはっきりとは分かれていなかった時代を示すものでございます。
「孫子」には、「兵とは詭道なり(計篇)」「凡そ戦いは、正を以て合い、奇を以て勝つ(勢篇)」「敵の情を知らざる者は、不仁の至りなり(用間篇)」とありますように、いたるところに忍び=諜報活動・インテリジェンスの大切さが説かれているのでございます。
戦国大名や配下の武将にとって、明日をも知れぬ戦乱の世で生き延びるためには、刃の下に心を置いてじっと忍びつつ、密かに敵の様子や、勝てる要素を探る忍び働きが不可欠であったことでございましょう。
忍びの世界は、日本古来の山岳信仰、修験道や密教にあるような自然崇拝と密接に結び付いております。日本の修験道の開祖とされる役行者を崇めたてまつり、大自然の中に身を投じて、その中で生き延びるために、人間としての能力を可能な限り引き出そうとするのが修行の根本なのでございます。
忍びが信仰したのは密教の諸仏、諸尊でありまして、大日如来、不動明王、摩利支天、毘沙門天、大黒天、八幡大菩薩など、いわば豊饒な自然と共に生きる八百万の神々。多神教的な世界でございます。そういう中で鍛えられた能力が、敵地の中でも、戦場往来の中でも、生き延びる術、危険を察知する力、恐るべき戦闘能力として縦横無尽に発揮されたのでございます。
井上清兵衛の母、永田家の娘は、家康が最も寵愛した側室、西郷局=於愛の方(永禄5年・1562~天正17年・1589)と深いつながりがございました。
清兵衛の兄の半九郎、後の井上正就は、於愛の方が生んだ徳川秀忠と乳兄弟として育てられました。また永田氏は、大奥の基礎を作った大姥局(大永5年・1525~慶長18年・1613)の侍女でしたから、徳川家の内実にも通じていたようでございます。(ちなみに大姥局は、2011年のNHKの大河ドラマ「江~姫たちの戦国」で加賀まりこ氏が演じました。)大姥局は女傑といってもいいほどの女丈夫であったとのこと。
西郷局の養父は、蓑笠之助という忍者で、もともとは猿楽師として東海方面に居たとのこと。また信長公が横死した本能寺の変の直後では、危機に瀕した家康公の伊賀越えに協力したとも伝えられます。その時、家康公に変装用の蓑笠を用意したため、そこからこの名が付いたとのこと。井上清兵衛は忍びの世界とも縁浅からぬところにいたのでございます。
そう考えると、父・井上清秀の先妻が服部氏というのも気になるところ。というのも大須賀康高に属す前は、織田家の武将・佐久間信盛に属していたからなのであります。
佐久間信盛は永禄11年(1568)の信長公の上洛で京に入り、信長公の帰陣後も残って京の政務に携わります。その後元亀元年(1570)に琵琶湖の南東部、近江、永原城(現在の滋賀県野洲市永原)に入るが、当然井上清秀もこれに従っていたはず。
近江と伊賀・甲賀は近いところにございます。服部といえばすぐ服部半蔵=忍者と思い込むのは避けたいのですが、そんな雰囲気が井上家の周囲には漂っているのでございます。
ちなみに服部家の娘と清秀は、長男・重成、次男・正友をもうけ、たぶん死別した後に、後妻にもらったのが遠江の永田家の娘なのでしょう。彼女が兄の半九郎正就を産んだのが天正5年(1577)で父の清秀44歳の時。そして清兵衛政重が産まれた天正13年(1585)は、清秀が52歳の時であった。
やはり鈴木氏と共に訪れた井上家の菩提寺、本源寺のご住職からも、「夜になると女たちは家の戸を閉めてぴったりと閉じ籠っていたそうです。というのも夜になると忍者たちがこのあたりを駆け回っていたから、と聞いております」とのこと。寺に伝わる昔語りに、案外真実というものが残っているものでございます。