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まだ子どもの井上清兵衛さまは江戸城にいたのでしょうか?

 こうして、秀吉公による天下統一は一応の決着を見たのでございます。家康公が関東へと移封されたことにつれまして、大須賀忠政さまも房総半島の中心、久留里3万石(現在の千葉県君津市久留里)に移ることになりまする。その配下の井上清秀さまは久留里へと移られたことでございましょう。しかし清秀さまの妻の永田氏はどうされたのでございましょうか。清兵衛と名乗る後の井上政重さまはまだ5歳の子どもでございます。

 ここで講談師は想像するのでございますが、井上清兵衛、後の政重さまは、母の永田氏と共に江戸城に居たのではないかと思うのでございます。それは母の永田氏が、幼名を長松と呼ばれた徳川秀忠公の乳持女、つまり養育係のひとりだったことからの推量でございます。

 母の永田氏は、秀忠公のご誕生から、当時家康公の居城だった浜松城に出仕していて、兄の半之助も徳川秀忠公の乳兄弟として幼い頃から仕えておられました。そのため兄、半之助さま、後の正就さまは秀忠公の近臣として、徳川幕府の中でいち早く頭角を現す存在となられたのでございます。そして家康公の江戸移封に従って、江戸城に移っていたことでございましょう。

 ということは弟の清兵衛さまも、江戸城に母や兄と共に出入りして、秀忠公や家康公、あるいは大奥を取り仕切っていた大姥局とかなり近いところにおられたのではと考えるのでございます。

 こういう中で、家康公の目に、あるいは江戸城の奥を取り仕切る大姥局に、利発そうな少年と映ったことで、井上清兵衛さまの運命の道筋は大きく変わっていくのでございます。

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