三河衆の苦節、政重さまの祖父・井上清宗
井上政重さまの生きた時代は、網野善彦氏の言葉を借りるならば、「地域小国家の分立と抗争」から「再統一された日本国」へと時代が急速に動いて行った時代でございます。
応仁元年(1467)から始まり、京の町を全くの灰燼と帰してしまった応仁の乱から、戦乱の嵐は日本全土に広がり、既存の権威や支配を次々と打ち壊してまいりました。いわゆる下剋上の時代でございまする。しかし乱世はすでに百年近くも続けば、人々は明日をも知れぬ動乱よりも、新たな時代の秩序を求めつつ、なんとか安定を求めたいと願い始めるものでございましょう。
そんな状況の中、織田信長が桶狭間で今川義元の首を見事に取った永禄3年(1560)から、時代は急速に日本の再統一への機運が動き出したのでございます。
足利将軍を担ぎ出し、京と日本の中心を押さえ、一向宗や比叡山の宗門権力を徹底して破壊した信長ではございましたが、天正10年(1582)に本能寺の変で雄図半ばにして斃れてしまいます。それを継いだ猿面冠者の秀吉が日本統一を着々と進めてまいります。
そこに立ちふさがったのが徳川家康で、秀吉と家康が武力と政治力を競って争った天正11~12年(1583~84)の小牧長久手の戦いのあと、家康と秀吉は最終的に和睦をいたします。
そのような時代背景の中、天正13年(1585)、秀吉が関白に任ぜられた年に、遠江に住む徳川方の武士で大須賀康高配下の井上家にひとりの男の子が生まれたのでございます。幼名を清兵衛ともうしまして、これが後の井上筑後守政重さまでございます。
父は井上清秀(天文2年・1533~慶長9年・1604、9月14日)、祖父は井上清宗(永生6年・1509~慶長元年・1596)という松平=徳川家に古くから仕えた武士。しかし清宗と清秀の間には直接の血のつながりはなかったのでありました。
その理由を申すなら、井上清宗と共に、松平清康に仕えた阿部大蔵定吉(永正2年・1505~天文18年・1549)の側室、星合氏の娘が赤子を孕んだまま清宗に嫁いだ(寛政重修諸家譜)からでございます。そのあたりの複雑な事情がありそうなのは、とりあえず脇に置いて、清秀の実父、つまり政重さまの祖父は阿部定吉ということになるのでございます。
三河国で勢力を伸ばしつつあった松平家を襲った苦難のひとつが、天文4年(1535)の守山崩れと申す事件でございます。これは家康の祖父、松平清康が、尾張の織田勢と対峙した陣中(現在の名古屋市守山区市場)で、なんと自分の家来に刺殺されてしまった件でございます。
清康を刺殺したのは、阿部定吉の息子、阿部弥七郎正豊。12月5日早朝に陣中で馬が騒いだのを、主君、松平清康が父、定吉を織田方との内通を理由に手討ちにした、と弥七郎正豊は思い込み、清康を後ろから刺殺したのでありますなあ。哀れ弥七郎はその場で斬り殺され、父の定吉は責任を取って自害しようとなさりましたが、なんとか思い止まられたという大事件。
いわば主君殺しの不肖の息子、阿部弥七郎正豊は、井上清秀の兄ということになりまする。
この「守山崩れ」以後、松平家は織田家・今川家に挟まれて、さんざんに翻弄される小国の悲哀をなめ尽くすのでございました。永禄3年(1560)、桶狭間で今川義元が首を討たれ、やっと家康(当時は松平元康)が岡崎に帰還し、松平家は独立を果たすことになったのでございます。
井上清宗は、その松平家古参の譜代衆として、大須賀康高(大永7年・1527~天正17年・1598)に仕えました。大須賀康高は家康の命を受けて、遠州高天神城攻略の中心となり、海辺に3階4層の天守閣を持つ横須賀城を築城(天正10年・1582)。そこに付けられた横須賀衆と呼ばれた家来衆の中に、井上清宗の名が見えるのでございます。