キリシタン概史、初期キリスト教からザビエル来日まで
当時の時代背景を描くのに、キリシタン、あるいはキリスト教の知識は欠かすことが出来ませぬ。それも長期的な歴史展望に立った視点で眺めることが不可欠でございます。キリスト教やキリシタンについては、本当に数えきれないほどの研究や文献があるので、ここではごく粗雑なデッサンを描くのみにしておきたいと存じまする。
ローマ帝国治下のパレスチナで産まれた一神教のキリスト教は、やがてローマ帝国全体へと広がり、激しい弾圧を受けたものの、やがてローマ帝国の国教となっていきます。そして西ローマ帝国が滅亡した後も、野蛮なゲルマン諸民族が互いに争う未開のヨーロッパで、キリスト教会は唯一の組織、あるいは権威として存在し続けていたのでありました。
それが外の世界から脅かされるのは、7世紀から始まったイスラム教徒のヨーロッパ進出でございます。8世紀までにイスラム勢力は、地中海の南岸世界、アフリカ大陸の北岸を制覇し、イベリア半島からピレネー山脈の南まで支配いたしました。アフリカからジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に上陸したイスラム軍に、当時の西ゴート王国で迫害されていたユダヤ人が大いに協力したとも伝えられております。
こうしてイベリア半島で繁栄を誇ったイスラム勢力・ウマイヤ朝は、ピレネー山脈を越えてフランスへたびたび軍を送ったのでございます。西暦732年、太守のアブドゥル・ラフマーン殿はピレネー山脈を越え、ボルドーを陥落させ、さらにトゥールへと向かいました。これに立ちふさがったのはメロヴィング朝フランク王国の宮宰シャルル・マルテル殿で、パリから南へと急行し、10月10日にトゥール・ポアティエ間でイスラム軍と激突したのでございます。この戦いで太守アブドゥル・ラフマーン殿は戦死され、イスラム軍は撤退いたしました。かくしてトゥール・ポアティエの戦いはイスラム勢力侵攻の北限となったのでございます。
一方、キリスト教国側からイスラム圏への反攻は、1096年~1270年の十字軍から始まりまする。この時期の未開野蛮なヨーロッパからの将兵は、繁栄を誇ったビザンチン帝国やセルジュク朝トルコなど東方諸国の先進的な文物に触れて、それを羨み、強烈な劣等感に苛まれたのは当然のことと申せましょう。
その劣等感をはねのけ、無知によるやみくもな優越感へと転化させたのは、当時のキリスト教会が掻き立てた聖戦の概念でございました。退廃し悪徳にまみれた豪奢な異教の文明を破壊し、驕り高ぶる異教徒どもを殺戮することは、聖戦であり全能の神の御心にかなうと考えたのでございます。まさに巧みなキリスト教教会のプロパガンダでございました。
今でも中近東の砂漠や岩山で暮らしていた素朴な青年が、いきなりニューヨークやLA、ロンドン、パリ、ミラノ、ベルリン、上海、東京などの爛熟した大都市に放り込まれたら、同じような思いを抱かないと誰が断言できることでございましょう。エルサレムが陥落した時、十字軍による血まみれの虐殺を淡々と記すキリスト教徒側の年代記作者のペンに、殺されるイスラム教徒の人々への憐みが微塵も感じられないのはそのためでございましょう。
東方への十字軍遠征として始まったキリスト教徒側からの反攻の狼煙は、西のイベリア半島では718年から1492年のレコンキスタ(キリスト教徒による国土回復運動)として現れてまいります。レコンキスタの始まりから約700年後の1469年、カスティーリャ王国のイザベルとアラゴン王国のフェルナンド2世の結婚で、スペインにキリスト教国の統一王権が誕生いたします。そして1478年には悪名高いスペイン異端審問が始まるのでございました。
これによって表面上はキリスト教徒を装いながら、実は信仰を捨てないイスラム教徒(モリスコ)やユダヤ教徒(コンベルソ、マラーノ)を摘発したのでございます。このフェルナンド2世にはユダヤ人金融業者から多額の借金がありまして、この異端審問を利用して借金を帳消しにしようとする裏の思惑もあったとのことでございます。後にこれはユダヤ人の裕福な財産を狙って、国庫に収納する裏の徴税行為として非難されてはおりますが、権力と武力を持つ王様には屁のカッパ、カエルの面に小便でございます。
長年にわたる対イスラム教徒の聖戦で鍛え抜かれたスペイン、ポルトガルの将兵は、国内に平和が訪れると、国外へと活躍の場を求めます。大型で堅牢なキャラック船、キャラベル船が建造され、何十門もの大砲を装備し、イスラム圏から伝わった羅針盤によって、長期の外洋航海が可能になりまする。これが当時の最新最強の軍事技術でございました。
新しい航路、新しい植民地を開拓し、運に恵まれれば、莫大な富と名声が転がり込む時代がやって来たのでございます。そんな早い者勝ちの機運がヨーロッパ人の競争心をガンガンと煽り立て、大航海ブームがスペイン、ポルトガルからヨーロッパ全土を吹き荒れまする。そしてアフリカ、インド、アジアへと、一獲千金を夢見る有象無象のヨーロッパ人たちが大挙して次々と海に乗り出してまいりました。ギラギラしたむき出しの欲望が歴史を動かす強力な原動力となったのでございます。
またローマ教皇も海外への侵略を積極的に後援いたしました。1517年にマルチン・ルターの起こした宗教改革の嵐に晒され守勢に立たされていたカトリック教会は、海外での新たな信者獲得に大いなる意欲を見せ、使命感溢れる宣教師を船に乗せて、征服した領土の住民への宗教的な救済を目指して、積極的な布教活動を開始したのでございます。その先兵となったのが、イグナティウス・ロヨラ、フランシスコ・ザビエルらが1534年に結成したイエズス会でありました。
かくしてレコンキスタからはじまったキリスト教的価値観を世界に広めようという動きは一気に加速してまいります。西暦1500年あたりからヨーロッパ世界は恐るべき膨張を始めのでございます。その動きは今もワールド・スタンダードと名を変えて、金融支配などの形態で、現在も地球上のいたるところに見いだされる、と申し上げるのは考えすぎでございましょうか。
このようにヨーロッパが成功を収めた理由として、現在の学者たちはさまざまな定義を行っておられますなあ。競争、科学、所有権、医学、消費、労働の6つによって西洋が覇権を取れたとするニーアル・ファーガソン氏の意見や、銃器・鉄製の武器、軍事技術、風土病・伝染病に対する免疫、航海技術、中央集権的な国家政治機構、文字をあげるジャレド・ダイヤモンド氏の見方がございます。これをポール・ケネディ氏はヨーロッパの奇跡と呼び、サミュエル・ハンチントンは西欧の普遍性として、その価値観を民主主義、自由市場、小さい政府、人権、個人主義、法治主義だといたしました。
果たしてそうなのでございましょうか?ここに、どこかできれいごとを並べているだけのように感じてしまうのは、私が非ヨーロッパ人だからなのでありましょうか?かくも明快な論旨で定義されたものに、はっきりしないまでも、どこかしら警戒心を抱いてしまうのは、西欧的な理念に対して猜疑心が過ぎるのではないか?そんな思いも、私には確かに抱いているのでございます。
こう言ってしまうと、いたるところから反発を受けるかもしれませぬが、全てのこのような動きは、かつてユーラシア大陸の寒い北西の片隅に暮らし、ローマ帝国などの先進諸国に虐げられていたケルト人、ゲルマン人、ガリア人などの強烈な劣等感、屈辱感から始まったのではないだろうか、と個人的に思ってしまうのでございます。自分たちは豊かではない、満足していない、飢餓に苛まれている。そんな劣悪な生存条件をはねのけて、なんとか自分たちの身の安全や財産を獲得し、自尊心を満足させようとした、きわめて俗なところから始まったのではないのでしょうか?それはどんな人にとっても普遍的な思いではあるのでございますが。
イスラムの人間は上手いことやってお金儲けをしている、きれいな女の子は全部根こそぎ持っていく。なんでおれたちはこんなにつらい思いをしているんだ。なんとかこれを挽回する手段はないものか?という憤懣やるかたない思いがヨーロッパの隅に追いやられていた人たちの心の中にあったことは容易に想像できるのでございます。そういった思いは、後の時代になって、モーツアルト作曲の「後宮からの逃走」とかロッシーニ作曲の「アルジェのイタリア女」といった、イスラム野郎に奪われた愛する女の子を奪回するぞー、みたいなオペラとなったように思えるのでございます。
かくして、そのような人々の思いが複雑に絡み合いながら、急速に拡大を始めたヨーロッパ世界の大波に乗って、イエズス会の宣教師、フランシスコ・ザビエルが、1541年にリスボンを出帆し、アフリカ喜望峰を回ってモザンビークへ、インド洋を越えてゴアに至り、マラッカから明の上川島を経由して、鹿児島の坊津にその第一歩を印したのは1549年(天文18)のことでございました。