日本キリシタン概史、秀吉公の禁教令まで
ザビエルさまの来日から、この日本でキリスト教の布教が始まるのでございますが、布教の許可を手に入れるために宣教師たちはまず戦国大名たちの了解を得なければなりませぬ。宣教師は、異国の新奇な品物や南蛮貿易の利益によって、まずは大名たちの関心を引きます。そして戦いに明け暮れる大名たちが最も関心を示す、当時の新兵器であった鉄砲の弾丸用鉛や火薬を作る硝石などの軍事物資が手に入るという具体的で生臭いお話へと持っていったのでございます。そしてキリスト教に対して門戸を拡げさせ、心理的な障害を取り除く、という段階を徐々に踏んだのでありますよ。
これと同じような事例は、20世紀にもございました。第二次世界大戦後、アジア・アフリカ諸国の相次ぐ独立が始まった時代に、キリスト教ならぬ共産主義、社会主義がイデオロギー、あるいはドグマとして広まっていったことでございます。共産主義、あるいは社会主義を看板に掲げて建国するとか、アメリカ系、ヨーロッパ系の中央政府が気に入らないとして共産主義、社会主義の反政府勢力を旗揚げすると、ソビエト連邦からカラシニコフAK47、あるいは鉄のカーテン内の東欧諸国版AKシリーズと7.62x39mmの実包がどっさり送られ、ソ連や東欧の軍事顧問、教官までどんどんやってくる、という図式がございました。そうして東西冷戦の代理戦争がアジア、アフリカで果てしなく戦われたのでございます。
東側から武器などの援助物資を受け取ったアジア、アフリカの各政府や武装組織のリーダーたちと、戦国日本に群雄割拠し、宣教師の仲介で鉛や硝石を買い込んだ武将たちとの間には、何の違いもございません。そして21世紀のアジア、アフリカで共産主義の国、社会主義の国がどれだけ残っているか、またその国民が幸せなのかどうかを一瞥いたしましょう。硬直したイデオロギーと見境のない武器流通が人類全体をどれくらい不幸にしたか、とくと考えてみてもよろしいのではないでしょうか。
やがて永禄12年(1569)、織田信長公が宣教師ルイス・フロイスさまに京都で面会なさり、京都での居住を許されたあたりから、各地に教会や神学校が建てられ、言葉の壁や宗教的な概念の違いはありながらもキリスト教を学ぶ若者たちが増えてまいります。また庶民には西洋医学の治療を施すなどして、宣教師たちの献身的な努力は認められてまいりました。
しかし、信長公がキリスト教に寛容であった最大の理由は、彼の天下布武を阻もうとした石山本願寺や比叡山延暦寺の力に対抗するためだったとも考えられるのでございます。石山本願寺との泥沼の戦いは、元亀元年(1570)から天正8年(1580)まで10年間も続き、その間に長島一向一揆を元亀元年(1570)から天正2年(1574)にかけて殲滅し、天正3年(1575)には越前の一向一揆を粉砕いたします。一方、比叡山延暦寺を元亀2年(1571)に焼き討ちし、全山ことごとくを灰燼に帰さしめたのでございます。
その間、日本でのキリスト教布教は着々と進み、当時の日本の総人口約1千万人のうち30万人ほどがキリシタンになったと申します。なんと人口の3%にも及んだのでございます。とはいえキリシタンの布教のためには、さまざまな経費が当然ながら発生いたします。そういった経済的な面は、日本国内の有力者たちからの献金もあったことでございましょうが、宣教師たちが南蛮貿易に投資して、そこからの得る利益もまた大きな部分を占めていたとも思えます。ヨーロッパとの往復に何年もかかる時代でございますから、ヨーロッパ本国からの送金など、もともと当てに出来るはずもございません。
その南蛮貿易で取り扱う商品も問題でありました。戦乱の続く日本では、説教節「山椒太夫」で語られてきたように、もともと人取りと称する奴隷狩りが盛んに行われておりました。戦いが終わると敗軍側の老若男女が、根こそぎ捕えられ、労働力や慰みものとして人買い商人たちによってどんどん売られていったのでございます。この時代になると、南蛮貿易によって海外とのネットワークが出来たことで、そういう戦争奴隷が男女を問わず、日本各地から海外にまで盛んに売り飛ばされてまいります。
天正10年(1582)~18年(1590)の天正遣欧少年使節の方々が立ち寄った港町でしばしば目にしたのが、そうして連れてこられた同国人たちであったと申します。こういった物々交換によって、あるいはその代金で、自分たちの軍備の増強を日常的に図ろうとする大名たちは、南蛮船から鉛や硝石をさかんに購入したのでございます。
また宣教師たちの間にも所属する教団によって、平和的な布教を図ろうとするイエズス会と、武力をもって日本を征服し、一気にキリスト教国化を図ろうとする新興のスペイン系フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会などがございました。また宣教師とて人間でございますから、個々の意見や考え方も穏健派から過激派まで、それぞれにあったことでございましょう。しかししかし、こういった日本の武力制圧を不可能にしていたのは、ヨーロッパの本国や、植民地拠点のゴア、マカオ、マニラからあまりにも遠いという地理的な条件と、また日本国内に散在する大名たちが持つ強大な武力、刀や槍、弓矢や鉄砲だったのでございます。
信長公の後を継いだ秀吉公は、キリシタンへの寛容な姿勢も引き継がれたのでございますが、天正15年(1587)の九州への出陣によって、九州の地がさまざまなキリシタン勢力によって蚕食されていることを具体的に知り、同年6月にバテレン追放令を出したのでございます。フランシスコ・ザビエルさまの来日から38年後の、日本で初めてのキリスト教に対する禁令でございました。
しかし秀吉公のキリスト教への禁教令はいまひとつ不徹底なままでありました。それはキリスト教を禁止すれば、大いに収益を上げられる南蛮貿易のうまみを失ってしまうからでございます。これ以後、為政者の意志によって貿易の利得を取るか、キリシタンの布教を抑えるか、どちらを重視するかによって、日本の対キリシタン政策は大きく揺れ動くことになるのでございます。