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「沈黙」のイノウエさま

 小説「沈黙」には、このようにございます。

「日本には今、基督教徒にとって困った人物が出現している。彼の名はイノウエと言う」

 イノウエという名を、我々が耳にしたのはこの時が始めてです。ヴァリニャーノ師はこのイノウエにくらべれば、さきに長崎奉行として多くの切支丹を虐殺したタケナカなどはたんに凶暴で無知な人間にすぎないと言われました。

 インドのゴアでこう聞かされた宣教師ロドリゴ殿は、ひそかに日本に上陸し、潜伏しながら布教を続けたものの、やがて捕えられて、井上筑後守政重さまご本人とじかに対面することになったのでございます。

 「パードレ。その井上筑後守様は、そこもとの目の前におられる」

 茫然として、彼は老人を見つめた。老人は子供のように無邪気にこちらを眺めて手をもんでいる。これほど、自分の想像を裏切った相手を知らなかった。ヴァリニャーノ師が悪魔とよび次々と宣教師たちを転ばせた男を彼は今日まで青白い陰険な顔をした男のように考えてきた。しかし眼の前には、ものわかり良さそうな温和な人物が腰かけていた。

 この時の政重は58歳。時は寛永20年(1643)のことでございます。

 そんな忌まわしい数々の伝説に包まれていたのが、小日向にあったキリシタン屋敷。これはもともと井上筑後守政重の下屋敷だったものを、捕縛したキリシタンの宣教師や信者を収容する特殊施設にしたものでありますなあ。現在で言うならアメリカ合衆国政府がキューバに所有する、グァンタナモ収容所といった趣でございましょうか。

 現在、その跡地は地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅からしばらく歩いた静かな住宅街にございます。キリシタン屋敷はもう跡形もなく、ただ石碑と東京都指定旧跡、切支丹屋敷跡として、昭和59年(1984)に東京都教育委員会が立てた案内板が立っているくらいなのでありまする。

 以前そこを訪れた時、石碑などを眺めつつデジカメで撮影していると、脇のビルから老女が静かに現れて、この石碑やキリシタン屋敷の来歴を記した紙をそっと手渡してくださいました。この地にまつわるキリシタン犠牲者たちの霊に向けた鎮魂の思いに、時間や場所を越えた、えもいわれぬ粛然とした感覚に捕らわれた記憶がございます。

 この切支丹屋敷に収容された最後の宣教師はジョヴァンニ・バッティスタ・シドッチさんという方で、当時の幕府の実力者、新井白石と対話して、その記録は「西洋紀聞」として残されておりまする。今年2016年にこの近辺のマンション建設にともなって、あたりを発掘調査していたところ、シドッチさんと思われる人骨が、なんと不思議なことに発見されたのでございます。

 その後の調査、研究で国立科学博物館がシドッチさんの生前のお顔を復元いたしました。そのお写真を拝見しますと、なかなか賢そうで優しげなお顔をされていますなあ。この研究は2016年11月12日(土)から12月4日(日)まで「よみがえる江戸の宣教師、シドッチ神父の遺骨の発見と復顔」という展示が開かれたのでございます。今もまだこのような発見がなされるのでございますねえ。

 それはさておき、かくも恐るべきキリシタン禁教政策を冷厳に推し進めた切支丹宗門改役の大目付、井上筑後守政重さまの実際の姿は、果たしてどのようなものであったのでございましょうか?

 キリシタン禁教史から見た井上政重さまのお姿は、主としてキリスト教側が書き残した資料によりますから、どうしてもキリスト教をひいきする視点から、反徳川幕府の側に立っているものでございます。

 井上筑後守政重に関する本や研究書も探してみたが、最初の時点ではめぼしいものを見つけることは出来ずじまいでございました。

 もし政重さまのご生涯を追うならば、日本各地の古文書から、ローマのイエズス会本部やヴァチカン教皇庁などが所蔵するラテン語や欧州諸国語の資料、果てはオランダ東インド会社の記録まで追わねばならないことでありましょう。一介の原稿書き風情ではちとしんどいことになりそうであります。

 ならば、自分で出来る限りを調べて、自分の解釈で書いてしまえ。今の日本で手に入る資料の中から、井上筑後守政重さまのお姿を類推してみましょうぞ。そう考えたのが、この大変な旅の始まりだったのでございます。

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