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歴史人物妄想仮説講談 偽伝・井上筑後守政重さま

この無謀なる文筆の目論見は 切支丹宗門改・大目付として世界と日本の境界に毅然として立ち、 ローマ教皇庁(ヴァチカン)が最も怖れた男、井上筑後守政重。 その人物像を虚実玉石混交で「講談師、見てきたような嘘を言い」とばかりに縦横無尽に語ろうとするものでございます。

元々、お武家さまとは・・・

 今はむかしの物語りでございます。

 これからお話しいたしますお武家さまが、平家物語や太平記にあるような戦場(いくさば)の古式作法に則って大音声にて名乗るとすれば、おそらくはこのようになることでありましょう。

 「やあやあ、遠からんものは音にも聞け、近くば寄って目にも見よ。我こそは、徳川さまがその昔、三河の国、松平郷におわす頃よりの譜代直参の家臣、井上の家に生まれたる井上筑後守政重なるぞー。いざ尋常に勝負、勝負ぅー!」

 もともとおサムライさんというのは、言ってみれば「力は正義なり」を真正面に押し出して、世渡りをしていく方々ですよね。より大きな力を、武力を持っているのが勝ちみたいな、物事を一刀両断、すっぱりと割り切って行く。荒っぽいのが取り得みたいな方々です。

 なんでまたこんな人たちが日本のあちこちに登場して来たかというと、世の中が荒れすさんで物騒になってきたからなんですね。

 その昔、聖徳太子や聖武天皇といった偉い方々が「仏法を守って、上下心をひとつにして、みんなが幸せに暮らせるように」と願われたのですけれど、時が経つにつれて、みんなどんどん好き勝手にやるようになってしまったんですね。

 都の貴族は好き放題、歌や管弦にうつつを抜かし、官職や利権を漁って有象無象が朝廷にたむろする。どこの家の娘が、天皇陛下のご寵愛を受け、皇子を産むかを競い合うのが、まつりごとの最重大事であります。

 国司となって地方に下る役人も、赴任した先で、取れるものならばなんでも出来る限り搾り取ろうと、あらんかぎりの悪だくみを考えて、実行します。峠道で乗っていた馬が足を踏み外して、深い谷底へ真っ逆さまに落ちても、無事引き上げられた時には、キノコを両手や懐にいっぱい詰め込んでいた受領の話など、地方官吏の強欲ぶりを伝える逸話には事欠きません。

 これではたまらん、納得できない、我慢できないということで、地元の人々が弓矢や刀、槍、薙刀などで武装して、役人どもの横暴や搾取から身を守ろう、土地を守ろうとする。これが武士のはじまり、と考えてもいいのではないでしょうか。

 それがだんだんとお互いに結びついて、関東では平将門、瀬戸内では藤原純友という武装集団が、都の中央政府に対して大反乱を起こします。これを承平天慶の乱と申すのです。今で言うなら広域暴力団の一斉蜂起みたいなもんでしょうか。

 悪事や犯罪というものは、基本的にあってはいけないものですが、「浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ」と石川五右衛門が辞世に詠んだように、いつの時代にもある世の中の不合理や矛盾が、弱いところに噴き出して来るのが悪事というものでありましょう。

 このような反乱、暴動を押さえ込むのも、また武士の仕事でした。内裏の貴族にはそんな実行力などありませんからねえ。せいぜいがお坊さんにお布施を渡して、怨敵退散を願う法要を盛大にやるくらいです。

 そんな事件の現場の汚れ仕事ともいえる治安維持活動、警察活動によって、武士は貴族にとって必要な存在となってくるのであります。そんな中で着々と頭角を現してきたのは、平清盛のお父さん、平忠盛だったのですねえ。

 武士は武力があるからいろんなことが出来る。農民を保護したり、田畑を守ったり、生産物の運送を安全に行ったり、いわばさまざまなシノギが出来るようになるのです。各地に興った武士団は、今で言うなら株式会社とか同業組合を作っているようなもので、いろんな物資の生産活動や流通業務に携わるようになっていきます。

 この忠盛さんは、シノギの種を日本国内に限ることなく、遠く中国大陸にも船を送り、宋の国と貿易をおこなって、ダイナミックにも巨万の富を蓄えます。

 ですから忠盛さんが昇殿を許された時には、堂上貴族たちが一斉に反感を示したわけです。武力、暴力を事とする、やたらと金は持っている賤しい人間が、貴族と同じ席に座ったわけですから。

 今で言うなら広域暴力団の組長が、国会議事堂に堂々と足を踏み入れるようなもんです。今の議員さんにはそんなお方はいらっしゃらないと思いますけれど。パチンコ屋さんからこっそりとお金をもらったり、外国の人や団体からお金をもらったりするのはいけないですよ、ねえ。

 時代が平安から鎌倉へ、室町へと移り変わっていくと、貴族の時代から武士の時代へと、歴史の担い手が替わっていきます。

 そして世は、戦国時代、下剋上の時代に突入いたします。実力なきものはたちまちのうちに滅ぼされるという荒事もここに極まったかのような時代になったのでありました。

 ですから戦場で「やあやあ、遠からんものは音にも聞け、近くば寄って目にも見よ。我こそはー・・・」なんて呑気に名乗っているうちに、数えきれない征矢に射立てられ、足軽どもに囲まれて、たちまち首を掻き落とされるような、情け無用の時代となったのでした。

 さて、そんなお武家さんの家に生まれた井上筑後守政重さんですが、どんな方だったのでしょうか。

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